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‘チョン・テイル評伝’を書いたという事実一つだけでも彼が残した業績は永遠に忘れられないだろう

原文入力:2012/02/13 20:36修正:2012.02.13 20:38(3219字)

1983年、一歩遅れて資格証を取り市民公益法律事務所を開業したチョ・ヨンレ弁護士が86年、明知ビルディング事務室でタバコを吸っている。4年後、彼は肺癌のために43歳で亡くなった(左側)。京畿道(キョンギド)、南揚州(ナムヤンジュ)、磨石(マソク)、牡丹(モラン)公園の民主烈士墓地にあるチョ・ヨンレ弁護士の墓. チョン・テイル烈士といくらも離れていない場所だ。チャン・イルスン先生が書いた‘チョ・ヨンレ之墓’標示石には何の碑文も記されていない(右側)。

[その時その人] 短い人生、大きな足跡 チョ・ヨンレ

 私がチョ・ヨンレに初めて会ったのは1974年の夏だった。 いわゆる緊急措置1・4号違反、民青学連事件の裁判が非常軍法会議で一瀉千里に進行された頃だった。 キム・ジハのお母さんチョン・クムソン女史を通じてチョ・ヨンレが私に会いたがっているという連絡を受けた。 その時、チョ・ヨンレは民青学連事件と関連してチ・ハクスン主教が用意したお金をキム・ジハから受け取りソウル大生ナ・ビョンシクとソ・ジュンソクに活動資金として渡したという容疑で手配中だった。

 もちろん私は早くから彼の名前は聞いて知っていた。 すでに高校3年の時、韓-日屈辱外交反対闘争に高校生を率いて参加した前歴があり、ソウル大法大に首席合格した秀才なのに加え、71年ソウル大生内乱予備陰謀事件の主導人物であったということ等々で彼は有名人だった。

 会ってみると果たして彼は白皙精悍な人だった。常に慎重だったために多少暗く見えたのが、彼の卓越した識見と能力は他の追随を許さなかった。 以後70年代を通じて彼と私の隠密な出会いは続いた。 直接行ったことはないが、その時彼は白蓮寺(ペクリョンサ)付近のある部屋で後日妻となったイ・オクキョンと共に厳しい手配生活をしていた。 暮らしはもちろん苦しかった。やりがいもあって金にもなる仕事を探さなければならなかった。 暇さえできれば民主化運動に関連した仕事を請け負ってこなした。 維新独裁が崩壊するまで、彼はずっとそのように隠れて膨大な仕事をやり遂げた。

 その中でも<チョン・テイル評伝>を書いたという事実一つだけでも彼がこの地に残した業績は永遠に忘れられないだろう。 彼はチョン・テイルに、チョン・テイルのために全てを捧げたといっても過言ではない。 評伝を書いただけでは足りなくて‘労働者の火花、ああチョン・テイル’という詩まで書いて世の中に知らせた。

 80年初め、初めて自由の身になったチョ・ヨンレは2月23日、長く先送りしてきた結婚式を挙げる。 媒酌はホン・ソンウ弁護士であった。彼は71年に拘束で追い出された司法研修院に再入学し、大学院にも復帰した。 修士学位論文の題名は‘公害訴訟における因果関係立証に関する研究’。 彼はこの時、すでに時代の新しい兆候を読んでいたのだ。

 83年春、彼はついに弁護士として市民公益法律事務所を大韓日報ビルディングに開く。事務室はまもなく高校の同窓、ユ・ヨングの支援を得て明知ビルディングに拡張・移転する。

 84年9月、ソウル市を相手に起こした望月洞(マンウォルトン)遊水池崩壊事故損害賠償請求訴訟は‘市民’と‘公益’という彼の指向性を象徴している。 その時、水害を被った望月洞の8万人余りの住民たちを代理した訴訟は最高裁がソウル市の上告許可申請を棄却したことにより5年10ヶ月ぶりに終了した。 これは司法史上初の大規模集団訴訟事件であり、無責任行政に対する市民の初勝利であった。 85年3月、未婚女性労働者の交通事故事件を通じて女性25才早期定年制を破棄する判例を作り出したし、煉炭工場の石炭粉塵による塵肺症損害賠償訴訟では憲法の中に眠っていた環境権を法廷に引き出し勝訴した。 弁論の他に意見書提出、記者会見、参考資料提出など最善を尽くすチョ・ヨンレの弁論活動を称して‘創造的弁論’という概念が生まれもした。

 広く知られている通り、チョ・ヨンレ弁論の白眉は‘クォン・インスクさん事件’に違いない。 86年7月、富川(プチョン)工団に偽装就業したソウル大除籍学生のクォンさんが富川警察署ムン・クィドンに‘性拷問’を加えられたという衝撃的な便りが伝えられた。 新旧教会と弁護士が構成した対策委でチョ・ヨンレとパク・ウォンスンが実務を引き受け、イ・ドンミョン、チョ・ジュンヒ、ホン・ソンウ、ファン・インチョルが外縁を担当した。 チョ・ヨンレは義憤と正義感から実務を自ら望んで乗り出した。

 その年10月3日、クォンさんの住民登録証偽造に関する裁判の時、彼が作成した弁論要旨書は名弁論に名文だった。 「今は残酷だった夏と秋が過ぎて、クォンさんはこの法廷に立ちました。 私たちが最後に涙で訴えようと思うのはこの光る魂の美しさを大切に守ってきた純潔無垢な娘はこの時代のすべての罪悪と堕落と不正を贖罪する犠牲として歴史の祭壇の前に自らを捧げ、私たちの中のその誰もこの時代で最も罪のないこの娘をこれ以上ただの一刻もひどく冷たい監獄の中に閉じ込めておく罪悪の共犯者となってはならないという事実です。 私たちのクォンさん、国民皆の胸の中の深いところに、ひっそりと高貴な希望となった私たちのクォンさんは、直ちに釈放されなければなりません。」

 チョ・ヨンレの弁護士活動は7年間に過ぎないが、司法史に残した足跡は誰よりも明確だ。 86年5月1日、法の日に合わせて発刊された<人権報告書>は初めて受け持つ画期的な事件だった。 正日実践法曹人会の出帆と、それを拡大発展させた88年5月の民主社会のための弁護士会(民弁)の結成も彼の情熱が作り上げた民主化の結晶体だ。

 チョ・ヨンレと仏教の縁も深い。 彼は大学時代、ソウル法大の仏教学生会と斥邪会に深く関与した。 最近、偶然ある仏教雑誌に書いた彼の文を発見した。 「およそ30年になろうとするが私の心から仏教を遠ざけたことは殆どない。 …それは制度としての韓国仏教に対する失望のためであっただろう。‘衆生が病気にかかったので私が病気にかかりました’という維摩経偉業のなつかしい獅子吼は今日どこへ行けば聴けるか。‘一日仕事をしなければ一日食べるな’という非常に厳しい百丈淸規を今どこに求められるか。」

 86年ミョンジン僧侶が拘束された時、彼が弁論を引き受け「真冬の苛酷な寒さを経て咲いた梅が鼻を打つ」と偈頌を伝えると、ミョンジンは「太陽が西山に沈めば月が東山に昇る」と受けた。独裁政権の終末が差し迫ったことを暗示する内容だった。 彼はチョンファ、ソンムン、ヒョンギ、ウォンガク、ジュヨン僧侶とも交遊した。

 彼の生前に果たせなかった最も残念なことは恐らく87年大統領選挙の時、野党圏候補単一化の失敗だっただろう。 候補単一化を中心となって主張した彼は単一化国民協議会結成まで主導した。

 90年12月12日、チョ・ヨンレは私たちのそばを去った。 享年43。若いといえば余りにも若すぎた。 彼の幽宅は磨石、牡丹公園の民主烈士墓地にある。先に旅立ったチョン・テイルと共に。 2004年4月19日、母校であるソウル法大に‘チョ・ヨンレ 記念ホール’ができた。チェ・ジョンギル教授記念ホールに次いで2番目だ。 彼を忘れずに記憶しようという意がそこに含まれている。

整理 キム・ギョンエ記者 ccandori@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/518818.html 訳J.S