フランス革命でルイ16世より先に権力の座から引きずり降ろされたのは、裁判官らだった。アンシャン・レジーム(旧体制)における最高位の裁判所だった高等法院(parlement)は、革命勃発の翌年に廃止された。高等法院の裁判官は、王に金を支払うことで裁判官の職を得て世襲した。裁判の当事者からわいろを受け取ることが横行し、各種の税金や徴兵の免除などの特権を享受した。貴族ではなかったが、もう一つの特権階級になった彼らは「法服貴族」と呼ばれた。平民には限りなく苛酷で、貴族にはきわめて寛容な判決を下した。特権を守るために時には王と対立することもあったが、同時に特権の維持のために抑圧的な絶対王政を守護した彼らは、旧体制の象徴も同然だった。憲法制定国民議会は、彼らの代わりに有徳の市民を裁判官に任命し、司法制度の大々的な改革に着手した。
このような歴史的経験は、フランスの憲法と司法制度にそのまま刻み込まれている。フランス憲法では、立法権・行政権と司法権は同等に扱われない。司法府は「権(pouvoir)」ではなく「機関(autorité)」と呼ばれるだけだ。三権ではなく二権分立だ。司法府は行政権に属するとみなされる。「大統領は司法機関の独立性を保障する」という条項を通じて裁判の独立は保障されるが、裁判所の組織や予算などは法務省に属する。また、憲法裁判を担当する憲法委員会(第7章)が、司法府(第8章)より憲法で先に規定される。韓国憲法とは正反対だ。憲法委員は大統領・上院議長・下院議長がそれぞれ3人ずつ任命する。最高裁長官も憲法裁判官3人の指名権を持つ韓国とは違う。韓国の最高裁長官は最高裁判事の任命提案権と裁判官の人事権を持つが、フランス憲法はこの権限を最高司法官会議に与えている。最高司法官会議は内部委員より外部委員のほうが多い。大統領・上院議長・下院議長が指名する人たちが外部委員として参加し、民主的正当性を確保する。内部委員も職級別裁判官会議で選出される。このすべての制度的設計の目的は明らかだ。選挙で選ばれていない権力である司法府が、むやみに国民の上に君臨できないようにするためだ。
韓国憲法はこのような警戒心を緩め、司法権の民主的統制を軽視してきた。その結果、司法府は国民から乖離した法服貴族になり、ついには主権者の上に君臨しようとする反憲法的怪物に進化するまでになった。チョ・ヒデ最高裁長官と9人の最高裁判事が主権者の民主的権力創出(大統領選挙)の権限を奪おうとした今月1日の最高裁判決は、その素顔を表した場面だった。
個人の政治指向を超え、国民の命令によって尹錫悦(ユン・ソクヨル)前大統領に全員一致の罷免宣告を下した憲法裁判官とは異なり、10人の最高裁判事らは最高法官という神聖な職を、自身の政治的選好を暴力的に貫くことに乱用した。わいろをもらって判決を下すことと比べ、どちらがより堕落した裁判官なのか。しかもチョ最高裁長官は、仮にも三権分立の一つの軸であるにもかかわらず、大統領の憲政破壊の内乱を一言も批判しなかった。尹錫悦前大統領を釈放したチ・グィヨン判事もこのような最高裁長官との暗黙のコンセンサスがあったのではないかという疑いは、荒唐無稽なものとは言えない。国民を抑圧する者の側に立ち、自身の特権を守ろうとしたアンシャン・レジームの裁判官たちと変わらない。
もう一つ驚くべきことは、最大野党「共に民主党」のイ・ジェミョン大統領候補に対する「拙速判決」に批判が出ると、最高裁が「記録を全部読む必要はない」と釈明したという事実だ。イ候補の判決でなくとも、裁判一つひとつに人生が関わっている多くの国民のことを考えれば、絶対に言えない言葉だ。いちいち記録を読んで忠実に裁くのが難しいのであれば、最高裁判事の数を増やすべきだが、最高裁はこれにも反対している。国民の裁判を受ける権利より、少数の最高裁判事のわずかな特権をより重視するためだ。ドイツでは、分野別に民事・刑事・労働・社会・行政・財政の5つの最高裁があり、そのうちの民事・刑事の最高裁だけで100人以上の最高裁判事がいる。フランス最高裁もドイツと同規模だ。イタリアの最高裁判事は200人を超える。
チョ・ヒデ最高裁長官とチ・グィヨン判事に象徴される、現時代の堕落した裁判官が生まれた背景には、民主的装置があまりにも足りない司法制度が大きく関わっている。欧州諸国はフランスのように、司法府の人事には議会などの選挙で選ばれた権力が直接・間接的に関与する。米国では裁判官を選挙で選ぶ州が多い。一般国民が陪審員や裁判官として裁判に実質的に関与する制度も、欧州・米国に広く存在する。ドイツには裁判官が法を歪曲して不当な判決を下した場合には処罰する法律もある。裁判官が国民の上に君臨する存在ではないという事実を、制度で宣言しているのだ。
司法府の独立は次の段階の問題だ。司法府の独立は、国民から独立して自分勝手な判決を下す特権ではないからだ。検察は独立性という美名のもとに、統制できない怪物のような権力機関になった。裁判所もその道を歩んできた。検察に比べて目立たなかっただけだ。「選挙で選ばれていない権力」である司法府は、独立を言う前に、国民に対する恐れをまずは持たなければならない。チョ・ヒデ最高裁長官ならびに9人の最高裁判事とチ・グィヨン判事は、主権者が司法府にいかなる権限をどのように付与するかを、改めて決めるべき時期が来たことを知らせる警鐘となった。その司法改革の過程で、裁判官は自身の権限が国民から生じているという憲法の原理を身をもって学ぶことになるだろう。
パク・ヨンヒョン|論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )