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[寄稿]日本が慰安婦被害者の金学順さんの切手を発行したら

登録:2023-01-04 02:37 修正:2023-01-04 07:00
米国政府の持続的な謝罪は日系米国人に対するものでもあるが、同時に過去に対する省察を通じて二度と同じことを繰り返さないという共同体の意志を固めるものでもある。誤った歴史的事実に対する持続的な言及は、私たちの中のファシズムを警戒し予防するものでもあるはずだ。 
 
キム・ヒョナ|作家・ロードスコラ代表教師
太平洋戦争当時、米軍兵士として参戦した日系米国人を記念して発行された米国の切手=米国郵政公社(USPS)//ハンギョレ新聞社

 切手収集が趣味として人気を博していた時代があった。近況を伝える主なやり方が手紙だった時代なので、40年以上前のことだと思う。鳥、花、魚のような特定の種類の切手を集める人もいれば、外国の切手を集中的に収集する人もいた。重要な記念日や歴史的な日を記念して特別な切手が発行されれば、切手に熱中する収集家たちは並んででも買ったものだ。消印が押された切手を集める人たちは、封筒から切手を慎重にはがして保管した。

 Eメールが登場し、各種SNSが主なコミュニケーション手段として定着したことで、手紙を書くことはなくなり、切手を買うことはなおいっそうなくなったが、昨年夏、ハワイでとても久しぶりに切手を買った。米国郵政公社(USPS)が発行した、ようやく少年らしさの抜けた東洋の青年の軍服姿がデザインされた切手だ。写真の横に「GO FOR BROKE(すべてをかけて)」という文字がデザインされており、その下には「JAPANESE AMERICAN(日系米国人)」と記されていた。GO FOR BROKEといえば、太平洋戦争当時、日系米国人で構成された第442連隊のスローガンではないか。

 1941年12月、日本の真珠湾奇襲で太平洋戦争が勃発した時、米国西部には12万人あまりの日本人が住んでいた。日本人の最初の海外移民先はハワイだった。明治維新が断行された1868年、153人の日本人がハワイのサトウキビ農場に移民したのが海外移民の始まりだった。翌年の1869年には40人が日本政府の許可を得て米カリフォルニア州に移住する。海外への移住は、日本国内で生活の基盤を失った人々にとって一種の突破口だった。明治維新当時、日本では各種の名目で課される税金に耐え切れず、生活苦に直面したり農地を捨てて流民になったりする農民が増えていた。その後、ハワイが米国領土に編入(1897年)されると、ハワイに居住していた1万2000人を超える日系移民が一気に米国西部地域に渡るということも起きた。ハワイより賃金水準の高い地へと再移住したのだ。日本移民は缶詰工場、木材の製材所、鉄道の建設現場、農場などで働くことになる。日本移民が増加すると、中国人排斥法に続き、1924年には日本人の移住も法的に禁止されるに至る。

 中国人の移住は日本人より早くからあった。カリフォルニアのゴールドラッシュ時代、1848年から1855年の間に多くの中国人が米国に移住しており、彼らはその後、大陸横断鉄道の建設に一役買っている。安価な労働力を提供し、困難できつい仕事に耐えたが、彼らはまもなく米国主流社会の非難の対象となる。米国の労働者は低い賃金水準をアジアからの移住労働者のせいにし、労働組合からも中国人を排除する。これは中国人排斥法の制定へとつながるが、特定の民族の労働者集団の入国を禁止した初の法律だった。黄禍(yellow peril)という言葉が社会的に拡散する中で、日本の労働者もやはり子どもたちが公立学校から排除されるなどの差別を受け、続いて日本人の移民も法で禁止される。

 真珠湾空襲はアジア人に対する偏見と差別に油を注いだ。ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃から2カ月後の1942年2月19日、大統領命令9066号に署名する。アジアからの移民を警戒し疑う社会的雰囲気の中で胎動した大統領令9066号は、敵性国家出身の移民を強制的に隔離収容する法的根拠となった。大多数の米国人がこの大統領令を積極的に支持し、賛同する。

 日系米国人はある日突然、「潜在的スパイ」あるいは「潜在的敵軍」となった。米国で生まれ、米国の学校で教育を受け、米国の職場に通っていたにもかかわらず、何よりも米国市民だったにもかかわらず、日系であるというだけで解雇され、財産を没収された。そして収容所に送られた。敵国である日本と連合して内乱を起こすかもしれないという推測、または疑心からだった。

 その過程で第442連隊も作られた。この部隊は、大隊長ら3人の白人幹部を除けば、残りは全員がハワイまたは米国本土の日系2世で構成された。日系米国人で構成された部隊は、すべてをかけて(go for broke)祖国である米国の勝利のために戦った。彼らは自分たちのことを米国人だと考えていたし、実際に米国人だった。彼らは米国人であることを証明するために喜んで命をかけた。その第442連隊を記念して発行された切手の中の人物は、ハワイ移民2世のヤマモトだった。切手が発行された年、ホワイトハウスは大統領令9066号についての謝罪声明を発表した。

 「79年前の今日、12万人の日系米国人を不当に強制収容した大統領令に署名がなされた。彼らは単なる自分たちのルーツのせいで、数年にわたり家族と職場から引き離されて収容された。連邦政府のこの行為は不道徳で違憲的だった。米国史上最も恥ずべき時期の一つだ」とバイデン大統領は公式に発言した。「当時の政策は根強い人種差別、外国人憎悪、移民排斥へとつながり、米国は自由と正義という建国の理念に沿うことができなかった。苦しめられた日系米国人に対する連邦政府の公式謝罪を再確認する」

 再確認するというのは、以前にもすでに謝罪していたことを意味する。レーガン元大統領は1988年、「人種的偏見と戦時状態の集団ヒステリーに振り回された政治的過ち」だったと公式謝罪し、オバマ元大統領も2015年に「日系米国人の強制収容は米国史で最も暗い部分の一つで、恐怖に屈し、我々の最も根の深い価値を裏切った行為」だと表明している。

イラストレーション=キム・ウソク//ハンギョレ新聞社

 日本軍慰安婦問題について韓日両国は「最終的で不可逆的」という表現を使ったことがある。安倍元首相は「私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」と述べた。米国政府の持続的な謝罪は日系米国人に対するものでもあるが、同時に過去に対する省察を通じて二度と同じことを繰り返さないという共同体の意志を固めるものでもある。誤った歴史的事実に対する持続的な言及は、私たちの中のファシズムを警戒し予防するものでもあるはずだ。

 日系米国人兵士の切手を発見し、あえて買ったのは、いつか日本が金学順(キム・ハクスン)さんの切手を発行する日が来るのではないか、という期待と希望からだ。金学順さんの切手は、私たちの子どもたちとその後の世代が記憶を共有し、共同の価値を設計し、共に平和を作りあげながら生きていく兆しとなるだろう。遠からず日本の郵便局が金学順さんの切手を発行することを願う。

※金学順さんは、日本軍慰安婦の実状を初めて実名で証言した女性。

//ハンギョレ新聞社

キム・ヒョナ|作家・ロードスコラ代表教師 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1074294.html韓国語原文入力:2023-01-03 18:52
訳D.K

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