1932年5月15日、日本の犬養毅首相が官邸で右翼の青年将校たちに暗殺された事件は、歴史の分水嶺となった。
犬養首相の死は、関東軍が中国東北地域に建てた傀儡政府「満州国」と関係していた。日本の軍部と右翼勢力は、最初は朝鮮を、後には満州を、日本の安全を守る「生命線」だと主張した。満州の「特殊利益」を確保してこそ、後発帝国主義国である日本の安全は守ることができると述べていた。1931年9月18日、日本軍は遼寧省瀋陽近くの鉄道を爆破する自作自演を繰り広げ、中国軍の仕業に見せかけた。わずか6カ月で関東軍は満州のほどんどを掌握した。中国が国際連盟に訴え、調査団が満州に派遣されると、日本国内では日本が不当に非難されているという宣伝扇動が激しくなった。
当時の民間人出身の日本の首相たちは、軍が日本を戦争に陥れることを憂慮したが、軍を統制する力はなかった。1931年末に首相となった犬養毅は、満州国を「独立国」として公式に宣言することを保留しようとしたが徒労だった。日本海軍が上海の中国軍を攻撃すると、犬養は天皇の関与を嘆願したが無駄だった。
犬養は官邸に乱入した右翼将校たちを対話で説得しようとしたが、銃弾を受けて死亡した。犬養首相の暗殺によって政党内閣体制は崩壊し、日本は軍人首相が統治する時代となった。大恐慌に続く不安が世界を覆う中、中産層は崩壊し、農民たちは深刻な貧困に陥った。民主主義の基盤は消え去った。同じ時期にドイツではナチスが政権を獲得(1933年)し、ファシズムと軍国主義が世界を席巻した。
1936年2月26日未明に、既得権勢力を追放し天皇原理主義体制を打ち立てることを主張した「皇道派」の下級将校1400人が起こしたクーデターでは、斎藤実内大臣(元首相)らが殺害されたが、岡田啓介首相は義父が代わりに殺害されることで命拾いした。翌1937年、日本は日中戦争に突入した。
戦後の日本でも、政治的暗殺が消え去ったわけではない。1960年には社会党の浅沼稲次郎委員長が演説中に右翼青年に刃物で刺されて死亡しており、2007年には自民党の核保有論や改憲の動きを批判していた長崎市の伊藤一長市長が暴力団に所属する男に銃撃されて死亡している。
8日の安倍晋三元首相の銃撃死亡事件は、戦後日本で初めて起きた元・現職首相の暗殺事件だ。日本の右派政治の象徴である彼の死は、右傾化に立ち向かおうとした政治家が右翼によって暗殺された以前の事件とは意味が異なるが、世界は100年前に戻ったように不安に覆われている。ロシアによるウクライナ侵攻は、1930年代の日本の関東軍による満州侵攻と類似した「生命線」論理によって展開されている。世界は再び民主主義の危機、経済的不安に包まれている。安倍元首相の悲劇的な死を哀悼する日本社会も、再び岐路に立たされている。歴史の教訓を胸に刻みつつ、平和憲法の改正や軍備増強ではない、より良い道を探っていくことを願う。