この数週間の「告発教唆」疑惑と大庄洞(テジャンドン)に関する議論以外の大統領選挙関連の問題を調べてみた。ほとんどは有力候補のうちの一人であるユン・ソクヨル前検察総長に関連している。彼の競争相手は、ユン・ソクヨル氏が「肛門鍼の専門家」と親しかったり、自ら次元界を出入りする能力があると主張する「天空師匠」のような人物をメンター(相談相手)にしているとして攻撃した。考えてみれば、議論になった彼の配偶者のキム・ゴンヒ氏の博士論文のテーマも「オンライン運勢」コンテンツだ。何より彼が討論会の際に手のひらに描いていた「王」の字は、大衆にユン・ソクヨル氏が何か怪しく陰気な世界に陥っていると感じさせることになった致命的なきっかけだった。
多くの市民とメディア関係者を混乱させる問題は、大統領候補に関わるこの怪しげな記標が、一体何のカテゴリーに属するのかということだ。呪術や易術、巫俗(シャーマニズム)のような現象は、確かに広い意味では宗教的だが、私たちがよく使う宗教という概念に完全には一致しない。通俗的な宗教概念は極めて狭く、「正常」である制度宗教から逸脱した何かが、教団に似た組織を備えていれば「新興宗教」になり、それすらなければ「迷信」に分類される。したがって、実際のところ職業政治家の宗教的自由には、いくつかの暗黙の制約が課せられているも同然だ。政治家が入信している宗教があったり宗教家に会い支持を訴えることは、許容されるだけでなく推奨されるが、宗教のカテゴリーを逸脱し宗教的な領域に関わることは、恥ずかしいことだとみなされる。
このような構図のなかで、今回のユン・ソクヨル批判で多く登場した「巫俗」という言葉は、多少曖昧な位置を占めている。巫俗を厳密に定義することは難しいが、ムーダン(朝鮮半島におけるシャーマンを指す言葉)という宗教専門家が介入していない現象までも巫俗と呼ぶことは適切ではない。しかし、宗教と迷信に対する近代的な区分が導入されて以降、巫俗はたびたび韓国の迷信の領域を代表する表象として扱われてきた。巫俗は民族文化の原型を含む伝統として扱われなければならないとしたり、巫俗という言葉の代わりに「巫教」という独立した宗教と呼ぶべきだといった代案に関する議論が提起され続けているが、今もなお韓国社会の公的な議論では、巫俗と迷信は互換可能な概念として残っている。
日本の長崎外国語大学の新里喜宣教授は、最近発表した「『崔順実(チェ・スンシル)ゲート』の巫俗言説 」と題する論文で、あたかも今回の事態を予測していたかのような見通しをしている。チェ・スンシル(改名後はチェ・ソウォン)は、少なくとも表面的にはプロテスタントの信者であり、彼女を巫俗や占いなどに関連付けた多くの疑惑は、かなり早い段階で特に根拠がないことが明らかにされた。巫俗関連の研究者や当事者である巫俗団体は、巫俗に対する否定的イメージを政治的な攻撃の手段に利用することを批判した。しかし、「政党の思想的基盤に関わらず、巫俗が政治的に利用される可能性、(中略)『崔順実ゲート』のようなことが再び起きる余地は十分にある」。政治的な反対者を、迷信の領域とみなされるカテゴリー(例えば巫俗)に結びつけることがいかに効果的な攻撃方式であるか、朴槿恵(パク・クネ)弾劾に至る過程を通じて劇的に立証されたからだ。
興味深い点は、ユン・ソクヨル氏が迷信の議論の穴から抜け出すために取った行動だ。彼は、手のひらの文字と占い師のメンターの議論の真っ最中だった10月10日、聖書を持ちソウルの汝矣島(ヨイド)純福音教会を訪れ、祈りを捧げ手をたたき、礼拝に参加した。迷信の反対は宗教、特にプロテスタントだというサインを送ったわけだ。
しかし、このパフォーマンスは、彼の判断力に対する信頼をさらに落とす選択だった。呪術や占いを信じることは、不法でも非道徳的なことでもないにもかかわらず、市民が占い師と近しい公職候補者を敬遠する理由は、それが「正常」な宗教ではないからではない。そのような人物は、多くの人の利害が関わる公的な問題を判断する際、専門家や当事者ではなくとんでもない人の声に耳を傾ける可能性が高いからだ。彼が天空師匠の教えの代わりに主な宗教の指導者たちの助言を真剣に聞くとしても、問題の本質は変わらない。大統領候補について私たちが問わなければならないことは、宗教を信じるかでも、迷信を信じるかでもなく、重要な政治的な問題についての妥当で最終的な決定を自分で下せる能力を備えているかどうかだ。そうではない場合、どのようなことが起きるのかについての歴史的な経験を、私たちは大統領選を控えて省みる必要がある。
ハン・スンフン|宗教学者・円光大学東北アジア人文社会研究所 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )