1988年7月7日、日本政府は「日朝間に存在する懸案のすべての側面について、北朝鮮と交渉する用意がある」という内容の声明を発表した。韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領が「朝鮮半島の平和を定着させる条件を形成するために、北朝鮮が米国や日本など韓国の友好国との関係を改善することに協力する用意がある」と明らかにした直後だ。盧泰愚大統領が「民族自尊と統一繁栄のための特別宣言」(7・7特別宣言)で、韓国内外で北朝鮮と共存・協力するという意向を公式に発表するやいなや、待っていたとばかりに北朝鮮に向けて「関係正常化の交渉の意向」を強く示したわけだ。
米国政府が、盧大統領の「7・7宣言」の約3カ月後の1988年10月30日に、朝米の外交官の間での「中立的な場所での実質的な対話」を許容する「慎重な取り組み」(modest initiative)という新たな対北朝鮮政策を打ち出したことに比べると、日本政府の反応は電光石火のようだった。1971年7月、当時の米国のヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官が秘密裏に中国を訪問したときに、これを冷戦秩序の重大な変化の兆しと考え、米国より7年も早い1972年9月に中国と国交正常化した日本の卓越した“外交的嗅覚”がふたたび作動したわけだ。日本政府は声明発表だけでは足りないと判断したのか、翌年の1989年3月、竹下登首相が植民地支配について北朝鮮に「深い反省と遺憾の意」を表明した。
朝日関係は、1980年代末までは敵対的な緊張に近い冷ややかな関係だった。しかし、東欧の社会主義圏の連鎖的な体制転換、ベルリンの壁の崩壊、韓国とソ連の急激な接近などが、北朝鮮と日本の相互接近の必要性を高めた。特に、韓国とソ連の接近が決定的な刺激剤だった。
北朝鮮は、韓ソ国交正常化による北東アジアの冷戦秩序の亀裂と、韓国に大きく傾いた力の均衡を日本との関係正常化で戻さなければならないという絶体絶命の課題を抱えていた。日本もソ連の“南下”に立ち向かう“北進”が切実だった。北朝鮮と日本は近づかなければならない理由が多かった。“違い”を問うより“同じ”を作っていかなければならなかった。
1990年9月24日、自民党代表団(団長は金丸信元副総裁)と日本社会党代表団(団長は田辺誠元委員長)が、朝鮮労働党の招待で平壌(ピョンヤン)に向かった。日本の与党と野党第一党の実力者が率いる合同代表団が、首相の親書を持って平壌を訪れたのだから、結果が良くないわけはなかった。2日後の9月26日、金日成(キム・イルソン)主席と金丸団長、田辺団長による3者会談が行われた。その席で日本代表団は海部俊樹首相の親書を渡し、「我々は過去の歴史に対する謝罪と償いをしなければならないと考えております」と述べ、金主席は朝日国交正常化交渉の開始の提案で応じた(和田春樹『北朝鮮現代史』、韓国語版218~219ページ)。
さらに2日後の9月28日、「朝日関係に関する朝鮮労働党、日本の自由民主党、日本社会党の共同宣言」(3党共同宣言)が発表された。全8項目より構成されたこの歴史的な3党共同宣言は、「できるだけ早い時期に国交関係を樹立すべきであると認め」(第2項)、「政府間の交渉が本年(1990年)11月中に開始されるよう強く働きかけることについて合意」(第7項)した。同時に、36年間の植民地期間だけでなく「戦後45年間朝鮮人民が受けた損失について、朝鮮民主主義人民共和国に対し、公式的に謝罪を行い十分に償うべきであると認め」(第1項)た。関係正常化交渉の開始の方針も驚くべきことだが、日本が戦後45年についても補償の必要性を認めた事実は、衝撃に近い破格の内容だ。日本側の朝日関係正常化への意志を読みとれる部分だ。
北朝鮮と日本は、「3党共同宣言」の合意内容を現実化するためにすぐに動いた。1990年11~12月、中国の北京での3回(11月3~4日、17日、12月15~17日)の予備会談を経て、1991年1月30~31日に平壌で「朝日国交正常化のための政府間第1回本会談」を行った。
北朝鮮と日本の未来の青写真と呼ばれることになりそうだった「3党共同宣言」の合意と発表は、韓国とソ連が米国のニューヨークの国連本部で国交正常化の合意事実を発表(1990年9月30日)した2日前になされた。「3党共同宣言」は、韓ソ接近の波紋を吸収しようとする北朝鮮と日本の戦略的な対応だった。
脱冷戦期に唯一無二の覇権国の地位を固めようとした米国は、アジア最高の同盟国である日本の北朝鮮への接近を喜ばなかった。それどころか、「3党共同宣言」の直後に日本へのけん制を露骨にした。米国が日本に圧力をかけ、「北朝鮮に核査察を受け入れさせ、戦後45年の補償は拒否し、植民地の36年間の補償が北朝鮮の軍事力強化に利用されないという保障を受け、南北対話が後退しないよう配慮するよう要求した」という読売新聞の報道(1990年10月5日)は“兆候的”だった。
大体においてそうだったように、日本は米国に抵抗しなかった。平壌での第1回本会談で、米国が要求した4項目を「会談に臨む基本方針」だと北朝鮮に明らかにした。北朝鮮は普段とは異なり反発しなかった。“結果”を作りだそうと必死に努力した。日本の「20人の日本人妻の早期の故郷訪問の実現と12人の日本人妻に対する安否調査」の要請にも「可能な範囲で実現するよう努力する」と応じた。
しかし、米国の圧力に押された日本の会談での基本方針は、時間が経つにつれさらに強硬になった。第3回本会談(1991年5月20~22日、北京)で日本は、原子力保障措置協定の締結(国際原子力機関の核査察の受け入れ)、南北朝鮮の国連同時加入、南北対話の意味のある進展など3項目を「国交正常化の前提条件」に掲げた。北朝鮮としては国連加入と南北対話は自ら解決できたが、「核問題」が問題だった。北朝鮮は「この問題の解決に協力できる道は、朝米間で交渉が行われるようにする道しかない。日本側が朝米間で交渉が行われるよう米政府に相応の勧告をすることをもう一度要請」したが日本は断ったと、「労働新聞」は報道した(1991年5月21日3~4面)。
畳みかけるように、日本は第3回本会談で「李恩恵(リ・ウネ)問題の調査」を北朝鮮に要求した。「李恩恵問題」とは、1987年の大韓航空858便の爆破事件の犯人として捕まったキム・ヒョンヒが、自身の日本語教育の担当が「北朝鮮に拉致された日本人の李恩恵」だと述べたことに根拠を置いている。北朝鮮は「謀略劇」だとしながらも、第4回本会談(1991年8月30日~9月2日、北京)で「本会談とは別に会談会場の外で両国の外務省副局長クラスの非公式接触」をすることで日本と合意した。北朝鮮の関係正常化への意志がいかに強かったのかを示す証拠だ。
しかし、朝日国交正常化交渉は「核問題」(と「李恩恵問題」)で行きづまり、第8回本会談(1992年11月6日、北京)を最後に成果なしで一段落した。労働新聞は「和解と友好的な雰囲気」(第1回本会談)、「友好的な雰囲気」(第2回本会談)のなかで1回目と2回目の本会談が進められたと報道したが、第3~8回本会談の報道文では「和解」や「友好」という単語を一度も使わなかった。
「宮沢政権発足後、日本の(核問題に対する)態度は、我々の見解に近づいてきている。日本の(北朝鮮に対する)条件は、核問題によって顕著に強硬になっている。日本の一部の官僚は、そのような方針を弱めようとしているが、我々は日本政府のこのような方針を必ず維持させなければならない」という当時の米国のジェイムズ・ベーカー国務長官の戦略(1991年11月18日、ディック・チェイニー国防長官に送った極秘電)が成功したわけだ。米国はいわゆる「北朝鮮核問題」(第1回北朝鮮核危機)を口実に、日本の北朝鮮に対する接近を妨げたのだ。
トゥキディデスとカール・マルクスだったか。「歴史は繰り返す」といったのは。2002年9月17日、小泉純一郎首相が平壌で金正日(キム・ジョンイル)国防委員長と史上初の朝日首脳会談を行い「朝日平壌宣言」を採択した直後、「第2次北朝鮮核危機」が起きた。「朝日接近→北朝鮮核危機の勃発」のパターンが10年ほどの間隔を置いて二度も繰り返されたのだ。“偶然”なのだろうか。
「(1990年9月の)金丸(訪朝)のとき、ベーカーが核の問題を持ち出した。結局、米国の言い分が正しかったことが後でわかったが、ただし、それならなぜ、もう少し前にその情報をくれなかったのか。こちらが動くと、必ず、米国はつぶしにかかる、と思いたくもなる」
小泉首相の訪朝と朝日首脳会談を実務的に準備した日本外務省の藤井新・北東アジア課長が船橋洋一氏とのインタビューで語った言葉だ(船橋洋一『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン―朝鮮半島第二次核危機』、韓国語版126ページ)。 言葉がとげとげしくならないよう努める日本の文化を考慮すると、この証言には異例なほど強い不満の心情が込められている。
1990~91年と2002年の二度にわたる関係正常化の努力が失敗した後、朝日関係は出口を探せないまま泥沼でさまよっている。米国はこの状況を悲しんではいないだろう。
イ・ジェフン統一外交チーム先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )