フランスによるベトナム植民統治(1884~1945年)の初期、フランスの官吏たちはベトナムにネズミが多いことに驚いた。彼らはネズミを退治するために、ネズミの尻尾を集めてきた者に金を与える政策を取った。時がたつと、現地人は稼ぐためにネズミを飼い始めた。ネズミ退治政策は人々の切実な必要(金)のせいで失敗した。この話は様々な解釈が可能だろうが、私は人間の動機(motive)とその動機の志向するものについての良い例ではないかと思う。
前回の寄稿「英語、英語教育を考える」の掲載後、様々な読者からメールをもらった。共通点はやるせなさだった。「未来世代」を憂う気持ちが感じられた。前回の寄稿は不十分でもあり、思いもよらなかった意見を聞いたことで、このテーマについてもっと書きたいという動機が生じた。読者の意見の中には、やさしい英語プログラムを開発したので無料提供するという在米同胞からの提案、私の文章が事大主義を批判して民族の自尊心を回復してくれたということに対する「感謝」、現場の英語教師の苦悩と人生相談、英語について書いたのだから中国語についても書いてほしいなど、各自の立場からの苦悩があふれていた。
個人的に最も共感した話は、30年にわたり大学で英文学を教えてきた教授の手紙だった。「私は、人間は学ぼうとしない存在だと思います。英語の先生があふれていても英語が学べません。私が言いたいのは、勉強は強制では身にならないということです。どうか、このことを言っていただけたらと思います。勉強しろと言われればじっとしていられないというのに、どうして机に座っていられますか。誰もがイ・ボンジュ(マラソン選手)になるわけではないし、なる必要もないのと同じく、学習もそうではないのでしょうか。どうして無理やり勉強させるのでしょうか。私の考えでは、教育というのは正直な人を作る制度であればそれで良いと思います」。生涯を教職にささげてきた人の悲しい要約、「人間とは勉強しない存在だ」
生徒・学生たちはなぜ勉強しないのか。動機がないからだ。かといって、誰もが学ぶ動機を持つべきなのか。
融合は大計ではなく戦略
教育は国家百年の計。今もこの言葉に同意する人はいるだろうか。教育や環境問題は重大なので、当面の必要よりも、長期的に考えて大きな枠組みで政策を打ち立てねばならない? しかし、世の中は変わった。比喩ではなく文字通り、地球滅亡が目の前に迫っているのに、いつ百年後を考えるというのか。晩年に「私も資本主義がこんなに発展するとは思わなかった」と言ったマルクスが死んだのが1883年で、死後百年以上たった1993年にもパソコン通信の時代だったわけだが、今の「発展」のスピードを考えてみるといい。百年前、地球がこのようになるとは誰も思わなかっただろう。まず毎日の新型コロナウイルス感染者の正確な数字が目の前にあるニュースだ。今、北米大陸西部は49.5度、数百人が死んでいる。教育ではなく一日の生存こそ一大事、大計だ。
人類に教育が切実に必要とされたのは百年前だ。啓蒙としての教育はつかの間で、その後の学校は支配イデオロギーを注入し、階級を再生産する制度だった。生徒は幼い頃から挫折と暴力を経験する。今は校内暴力の加害者は主に同じ子どもたちだが、かつては教師の体罰があたりまえだった。韓国社会は学校での勉強を人格的な劣等感へと結びつける。それも学力社会ですらなく学閥社会だ。20年あまり前からは学閥に足を踏み入れることさえも親の能力によって左右されている。動機の単位は社会から家族へと移動した。
人口-教育-雇用のつながりは完全に断たれた。英語の勉強を含め、すべての生徒が勉強がよくできるというわけにはいかないし、「できたところで」必ずしも先が明るいというわけではない。ところが、韓国社会はこの不可能な任務を実現しようとしている。私は先述の教授の意見(正直な市民の育成)が、当代の教育政策の基本となるべきだと考える。
作家のキム・ヨンウさんの『自分でやってみたら、それなりに充実してますー40代に始めた田園生活、独立書店、家事労働、菜食』には、大韓民国の「進歩的な親」の率直な心情がよく表現されている。「世の中に対する健康的で批判的な視覚を持った、『それでいて』、良い大学に合格する学生」(引用符は原著)。キムさんは言う。「私たちは子どもを違う風に育てたかった…実はこんな気持ちも欲望の別名なのだろう…とにかく結論は、自分でちゃんとやっていってほしいという気持ちだ」。親が自分の人生を生きられるように、老後の資金を私教育(塾や習い事)の費用で散財しないように、子どもが自ら進んでよく勉強し、人格も立派で、「親のありがたみも知ってくれれば」どれほどよいだろうか。もちろん、空から舞い降りてくるそのような「天使」は多くない。
結局、自分が天使ではないことに気づいた若者たちは結婚と出産をあきらめた。現実を正しく把握してはじめて、現実に合った政策が可能となる。女性たちに強制中絶手術をした「家族計画」は忘れてしまったのか、今は子どもを産めと大騒ぎだ。私には理解できない。少子化は社会を保存するための女性の進化生物学的選択だ。政府と地方自治体が対策をたてるといって使う財源がもったいないだけだ。
子育て共同体としての学校
資本主義の発達の結果を要約すると、失業の日常化(貧富の差)とパンデミック(気候危機)だ。私の周りの人たちに、コロナによって韓国社会で「最も」苦しむ集団は誰かと聞いてみた。看護師などの防疫当局、自営業者、小商工人、観光業界と答えた人がほとんどだった。私は母親たちだと思う。戦時中でも学校は開かれていた。学校が閉鎖されるという前代未聞の事態は、専業主婦だろうが働きに出ていようが、24時間子どもたちの世話をし、勉強を促し、三度の食事の支度をしなければならないという、戦争のような日常を作った。最近は外食も多くなったが、規範そのものを無視するわけにもいかない。母親たちは悲鳴をあげる。
最近、ソウル中央地裁は、1978年に北朝鮮の宣伝放送を偶然視聴し、知人に「金日成(キム・イルソン)は男前だ」と言った疑い(反共法違反)で懲役10カ月を言い渡された90代の高齢者に、41年を経て無罪を言い渡した。幼い頃、私が受けた反共教育もこのようなケースと似ている。「北朝鮮は金日成主席のことを父と呼ばせ、家族と子どもを引き離して保育園を運営する非人間的社会」と学んだ。当時の北朝鮮の実態がどうであれ、安全な保育園と学校こそ、親が最も望む社会ではないのか。
学校の役割は勉強のみにあるのではない。「家庭のように」未来世代を育む機関とならなければならない。今は家族も学校も子どもも幸せではない。本当に時は来た。学校をなくせないのなら、今とは違う学校を作らなければならない。
現職の高校教師は言う。「学校は保護者に幻想を抱かせます。親たちは子どもが目の前に見えなければ、学校にいさえすれば勉強しているものだと思っています。コロナの最大の被害者の一つが保護者です。学校が休校して、子どもと親が相対するようになったら問題が起こりました。現実に直面せざるを得ないんです。親は子どもが学校や塾にいれば幸せなんです」
この二十数年間で、公教育に対する問題意識から数多くの代案学校(オルタナティブ・スクール)が生まれた。もちろん、代案学校にも問題は多い。私の友人は子どもを代案学校に入れたが、入学させた実質的な理由は寮だった。とりあえず、子どもは見ていない方が「気が楽で」、食事も支度しなくてよいからだ。彼女は、勉強はしょせん子ども本人の役目だという真理を悟った賢い親に属する。代案学校の中には有機農業をやっている地元の農家と協定を結び、生徒は農業を学び、商品化されない作物で給食を作るという、農家と生徒と保護者の三者いずれもが幸せなケースもある。このような環境の中ですら、子どもたちが長期休みで自宅に帰ると、負担を感じて旅行に行かせるという親も多い。これが親と子が共に生活する「普通の家族」の実態だ。
私教育費、暴力と学習放棄がまん延する学校、子育てに疲れた親(特に母親)のための代案は、学校を学習とともに日常的な子育ての空間へと変えることだ。30年前は生徒数が80人を超えるすし詰めの教室が多かった。今は教師1人当たりの生徒数は多くない。しかも「地方消滅」の危機にあってはなおさらだ。学校と家庭の二本立てで総体的な子育てを提供する教育は不可能なのだろうか。むしろ今の現実の方がはるかに非正常なのではないか。
融合とは、超越的位置にあって様々な知識を合わせるという観念ではない。移動だ。現実から出発して(rooting)、必要な実践へと移していく(shifting)という思考だ。現実に始まり、解決策を探っていくという戦術的思考(実事求是)だ。現実認識が遅すぎると我々の根が腐ってしまう。この文章の冒頭に掲げた「他人の編集された人生と自分の全人生を比較する不幸」、私はこれより正確な現実認識と洞察を近ごろ読んだことがない。先述のキム・ヨンウさんの本から引用したもので、キムさんの中学3年生の子どもが書いたものだ。
チョン・ヒジン
女性学研究者、文学博士。書くことと読書が好き。「論文、批評、随筆、手紙、コラム」などの文章のジャンルはないと考える。女性学研究者として学ぶのは、既存の論争構図と戦線を移動させたいから。女性主義と脱植民地主義の視点から韓国の現代史を再解釈することに関心がある。携帯電話は使用しない。