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[寄稿]韓国の87年体制、清算は半ば

登録:2021-06-30 03:29 修正:2021-06-30 09:41
イ・ジュヒ|梨花女子大学社会学科教授

 今から三十数年前、1987年の6・29宣言とともに権威主義体制が終わりを迎えた。それは不完全な民主主義だった。当時「ニューヨーク・タイムズ」が皮肉ったように「韓国は、その多くの抵抗と改憲がなかったとしても、どのみち大統領になっていたであろう人物を苦労して選挙で選んだ」。その成果はネクタイ部隊と呼ばれる中産階級の参加と連帯で可能となったものだったが、独裁時代の経済成長で大きな恩恵を受けた彼らは、より抜本的な改革に対する支持を早々に引っ込めてしまったのだ。

 そのため、私たちはその後も権威主義政権の遺産と形態を受け継いだ大統領の政権時期をたびたび経験しなければならなかった。そしてそのような大統領に対する弾劾は、私たちが87年体制の限界から脱出する扉を開いた重大な事件だった。これに反対していた野党の新しい代表が弾劾の正当性を認めたことは、不完全な87年体制の崩壊を切り開く驚くべき変化だった。問題は、その代表が標榜する能力主義が、87年体制の完全な清算にとって大きな壁となっているということだ。「試験序列主義」と呼ばれるべきこの能力主義は、金融危機を機に吹きはじめた新自由主義の暴風の下でこれまでの人生を送ってきた世代の特徴と認識されるが、実際には韓国社会において世代や地位を問わず広範に存在してきた。

 87年体制を歴史の向こう側へと送り出すためには、試験序列主義を打破しなければならない。韓国の労使関係が対立的で跛行的になるのは、たった一度で一生の階級が決まる子どもの試験準備のために莫大な教育費が必要とされる現実が一つの理由となっている。女性の経済活動への参加が低迷しているのも、公共保育の不足や後進的組織文化に加え、子どもの入試準備には母親の全面的な支援が必要となるという現実があるからだ。そのような犠牲を払った親と子は、より多くの補償を望まざるを得ない。たとえ失敗した他人に傷と屈辱を与え、刀で突き刺すことになったとしても。

 経済の二重構造を考えれば、試験序列主義を主張して利益を得られる集団は限られている。一瞬一瞬をW杯のトーナメント戦のように生き抜き、ごく少数のみが勝ち残るようなこのシステムに、いくら努力しても勝てない多数の人がなぜ同意するのだろうか。職務とあまり関連性のない瞬間的な試験の成績よりも、長期にわたる経験と献身が過小評価され認められないという現実がしばしば発生するにもかかわらずだ。それは、今とは異なる社会的秩序に対する希望がないからだ。代案がないのならば現実から答えを見出さねばならない。「ペッキングオーダー(序列)」に忠実に、自分より劣るか劣っていると考えられる存在に対して、それまで自分が受けてきた傷と屈辱を押し付けるしかない。

 公正を語るときによく登場するロールズの正義論の正義は不十分だ。ロールズは格差原理に則り、最も恵まれない人たちにとって社会的不平等が利益になるのなら、それを容認しうると述べる。ジェラルド・コーエンの批判のように、もし能力のある者が十分な補償を受けられず生産的な努力をしないことを決めたとしたら、それはそのような努力が不可能だからなのか、それともその程度の補償ではしようとしないからなのか。より平等な社会だったなら、不平等な社会より補償が少なくても能力のある者の生産的貢献は可能だったはずであり、その分、最も恵まれない人の利益も増加したはずだ。

 真の能力主義は、すべての市民が同じスタートラインに立てるように、普遍的福祉と基本所得が保障された時に、生涯にわたって能力を向上させる機会が公平に提供された時に完成する。また、能力のある者を選抜するという原則が、このように激しい補償格差を正当化することもない。高い能力を求める仕事はより安定しており、自己啓発の機会も多い。それ自体が大きな補償だ。

 民主主義の長所は、自分たちが気に入ったリーダーを自ら選出できるということだ。民主主義の短所は、自分たちの水準を超えるリーダーは持てないということだ。しかし、それは長所でもある。立派な大統領を得るためには、私たち自らが新しいビジョンを抱きつつ、より成長しなければならないからだ。

 どうか公正という時代精神が平等のエートスの中で実現されるよう願う。

//ハンギョレ新聞社

イ・ジュヒ|梨花女子大学社会学科教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1001206.html韓国語原文入力:2021-06-28 16:16
訳D.K

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