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[寄稿]コロナのように気候を見つめよ

登録:2021-05-10 04:14 修正:2021-05-10 07:17
キム・ハンミン|作家・シーシェパード活動家

 気候問題の活動家にとって新型コロナウイルスへの対応は夢のようだ。政府と議会が協力して最高水準の対応策を推し進める。全てのメディアがニュースをあふれさせ緊張感を高める。専門家集団は必要が生じるたびに厳重に警告する。医療陣は献身する。日常が根こそぎ変わっても、解雇者や廃業があふれ、家庭内暴力が増え、教育がうまくゆかず、行事や会合、旅行が無期限に延期されても、デモが禁止され、マスクが強制されても…大多数は賛同して協力する。憲法が保障する基本権が犠牲になっても、「利益の方が損失より大きい」という曖昧な命題がコンセンサスを得て、反対世論は黙殺される。そこそこの武器はすべて握られているわけだが、その果てに失敗しても誰かのせいにするわけにもいかない。再び耐え忍んで頑張るだけだ。どうしてこんなことがすべてが可能なのだろうか。コロナで可能なことを気候問題で行うにはどうすればいいのだろうか。

 第一に、環境問題として認識されたら終わりだ。大衆にとって、環境問題はいくら重要でも、自然を大切にしようという倫理的言説に聞こえる。環境問題としてアプローチした事例を見るといい。極めて「おとなしい」政策すら激しい反対に直面する。バナナのビニール包装規制一つとっても、毎月たった二食の低炭素菜食給食を実施しようとしても反発される。「個人選択なのに強要する」「エコファシズムだ」「業界を殺すつもりか」と大げさに訴える。コロナを単純に保健の問題、基礎疾患のある人と高齢層の問題に限定したと想像してみよう。そう考えようとすればそうも考えられる根拠もあったが、リスクの潜在力と予防の観点から我々全員の普遍的な問題と考えることにしたのだ。だから今のような統制が可能となったのだ。共同体的価値を大義名分として特定の観点を選んだのだ。気候危機こそ経済、安保、労働、食料、保健など、あらゆる分野を襲う未曾有の災害だ。超国家的非常事態という観点からアプローチしてこそ、それ相応の法的措置が可能となるのだ。

 第二に、コロナレベルの「じゅうたん爆撃」的コミュニケーション・キャンペーンが必要だ。危機は起きもするが、作られもする。依然として国内メディアは、気候問題は「肌で感じられないから」優先順位が低いのだと合理化するが、必ずしも事の軽重がメディアへの露出の程度を決定するのではないことをコロナは示している。コロナは本当にそれほど致命的で たいへんな病気なのか? その危険性を実際に肌で感じた人は何人いるのか。死体が山のように積み上がったか? 全国の病床がひっ迫したか? そうなるところだったが、そうはならなかった。放置した時の危険性と恐怖を政府、メディア、専門家が耳の痛くなるほど騒ぎたて、電撃的な協力を引き出したのだ。逆に「沈黙のパンデミック」といわれる大気汚染は毎年880万人を殺しても誰も語らない。気候変動による被害者数をリアルタイムで中継すれば変わるだろう。一言で言って、政府とメディア次第の意志の問題である。事は気候問題の方が大きいといえば大きいのだ。

 第三に、政策と個人の変化が同時に進まなければならない。コロナにおいても、この二つは二者択一ではなく相互補完の関係だ。政府と国家間の防疫政策の強力な作動と、個人の「距離措置(ソーシャル・ディスタンシング)」、「手洗い」などは常に並行してきた。気候危機の解決策は、「体制転換」しかないといって小さな実践をおとしめたり、「個人の実践」のみを強調したりすれば成功せず朽ちる。犠牲を受け入れて身を投じた個人の方が体制により多くを要求する傾向があることも思い出そう。

 第四に、技術万能主義であってはならない。「気候危機は技術が解決してくれる」という妄想に対応するのがワクチン万能主義だが、ワクチンは防弾チョッキではない。アップデートを続けるほか、変異ウイルスは別途の対応が必要であり、防疫も継続しなければならない。気候もエネルギー、食糧、輸送体制の大転換による、痛みの伴う生活の制約は避けられないし、その犠牲はコロナのように弱い者に対していっそう無慈悲に押し付けられる。これこそ、コロナ対応ではできなかったが気候問題では解決すべき難題だ。我々が払う犠牲について率直に意思疎通すること。これが抜けている気候に関する話はすべて嘘だ。

//ハンギョレ新聞社

キム・ハンミン|作家、シーシェパード活動家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/994423.html韓国語原文入力:2021-05-09 16:30
訳D.K

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