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[コラム]運動圏の「古い進歩」乗り越えようという意味での「進歩の世俗化」

登録:2020-10-06 02:46 修正:2020-10-06 12:18
「世俗化という用語はそれほど肯定的な語感ではない。にもかかわらずあえてこの用語を使ったのは、運動圏的態度を完全に脱して現実に密着した政治を行おうという趣旨だった。同じ脈絡から、社会民主主義の方が社会主義よりもよっぽど現実的で望ましいと考えた。その点でノ・フェチャンは議会主義者であり、政党主義者であり、一方では社会民主主義者だった」
民主労働党は、結党4年後の2004年の第17代総選挙で10人の国会議員を輩出し、進歩政党の新時代を開いた。第17代国会の幕が上がる5月31日、同党議員が歩いて国会に入ってくるところ。左から二人目がノ・フェチャン議員=キム・ジョンヒョ記者//ハンギョレ新聞社

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)とノ・フェチャンの「進歩(主義)」のキーワードがいずれもバスだったというのは意味深長だ。バスこそが彼らにとって親近感のある最も庶民的な交通手段だったからだろう。盧武鉉元大統領は、進歩とは何かを次のように説明している。「(バスが満員になった時、誰かが乗って来ようとしたら)保守は『おい、窮屈だ、乗せるな。行こう』と言います。『車掌さん、あの人たちも乗せてあげよう。大変だけど一緒に乗って行かなきゃ』と言って、人々をかき分け道をあけてあげるのが進歩です。私が幼い頃、釜山(プサン)から出発して金海(キムヘ)に来ると、いつも金海停留場でこういう争いが起こるんです。連帯、共に生きようというのが進歩の価値です」(『進歩の未来』、2019)

 ノ・フェチャンにとっての進歩は、有名な「6411番バス」の演説に余すところなく溶け込んでいる。「早朝4時に九老(クロ)発、開浦洞(ケポドン)行き6411番バスは50、60代の女性たちで満員になります。名前では呼ばれず、ただの「清掃美化員」で通るこの方たちは、存在するのに、その存在は私たちに感じられない透明人間です。このような人々にとって、私たちは透明な政党と変わりありませんでした。政治をやるんだと声を張り上げてはいるものの、彼女らの手に届く距離に私たちはいませんでした。存在はするが見えない政党、透明政党、それこそ大韓民国の進歩政党の姿でした」

 ノ・フェチャンは2012年10月、進歩正義党の共同代表受諾演説で「6411番バス」の話をし、「より低い所に下りて行く大衆政党を実現しなければならない」と述べた。その日、現場で演説を聞いていたキム・ヒョンタク(現・ノ・フェチャン財団事務総長)は「全身に電気が流れるようだった。こんなに易しい言葉で進歩政党の道を語れる人が、ノ・フェチャンの他にいるだろうか」と回想する。

 最も大衆的な進歩政治家だったノ・フェチャンの温もりは、今も正義党のそこかしこにしみついている。昨年入党したチャン・ヘヨン議員は「実際にお会いしたことはないが、1年あまりの党活動で常にノ・フェチャンの軌跡に触れてきた。人々は彼のことをとても大切に記憶していた。6411番バス演説も正義党に来て初めて聞いたが、誰を幸せにしたいのかがすぐにはっきりとわかること、平凡な言葉で政治を身近に感じさせてくれること、それが感動的だった」と語る。

 ノ・フェチャンと進歩政党が切り離せないのは、彼が1961年の5・16クーデター以降の韓国社会において、大衆的進歩政党運動を始めた最初の世代であり、常にその中心にいたからだ。ノ・フェチャンは生前に自らを次のように紹介している。「私は1956年生まれだが、第三共和国時代(1963~1972年、朴正煕政権の前半期)に小学校に通い、維新政権(1972年10月以降の朴正煕政権)下で高校と大学に通った。労働運動を始めたのは、光州(クァンジュ)民衆抗争後の全斗煥(チョン・ドゥファン)時代だった。私は学生運動出身で労働運動をした最初の世代だ。そして再び進歩政党運動へと進んだ最初の世代となった」

 2004年は、韓国の進歩政党の歴史で最も輝かしい年だった。4年前の2000年に結党された民主労働党(初代代表:クォン・ヨンギル)は、その年4月の第17代総選挙で初の国会進出、それも実に10議席を獲得する快挙を成し遂げた。政党得票率は13%を超えた。単純比較はできないが、1997年の大統領選挙で国民勝利21のクォン・ヨンギル候補が得た得票率(1.19%)に比べれば飛躍的な成長だった。

 総選挙勝利のタスクフォースは、ノ・フェチャン事務総長と党役員で構成された選挙対策本部だった。投票3カ月前から毎朝8時30分に開かれた企画調整会議は、小さな進歩政党が大きな保守政党に劣らぬ政治力を発揮できることを示した。会議にはノ・フェチャン事務総長をはじめ、ムン・ミョンハク状況室長、キム・ジョンチョル報道担当、オ・ジェヨン組織室長、イ・ジェヨン政策室長、チョ・スンボム広報室長、パク・クォンホ総務室長、シン・ジャンシク企画委員長、ファン・イミン事務副総長が出席した。このうち四人は今この世にいない。ノ・フェチャン事務総長のほかにイ・ジェヨン、オ・ジェヨン、チョ・スンボムの各室長が持病で亡くなっている。輝かしい瞬間をともにした人々のほぼ半数が今、私たちのそばにいないことは、その後の進歩政党の苦しい旅程を象徴するようだ。

 進歩政党の退潮の最も大きな理由は何か。運動圏(進歩主義的な社会改革運動に関わった人々)的な視覚から抜け出せない分裂・分党を多くの人が挙げる。ここには深い悔恨が染みついている。クォン・ヨンギル元民主労働党代表は「学生運動では不倶戴天の敵だったNL(民族解放派)とPD(民衆民主派)が、民主労働党を共に運営することで、ほとんど化学的結合直前まで行ったのだが…。(2008年と2012年の二度の)分裂さえなかったら、進歩政党の地位は今とは格段に違っていただろう」と述べた。2004年の選対会議のメンバーだったキム・ジョンチョル報道担当(現・正義党先任報道担当)は、「進歩政党の歴史で最も重要なのが(2000年の民主労働党の)結党なら、2番目は分党(2008年と2012年)だ。それ(分党)については私に責任があって…。その後、厳しい10年間を経験したのだから、その時に戻ったなら、もう少し賢明な方法を見つけられるのではないか、そんな風に思う」と語る。イ・ジョンヒ元統合進歩党代表は「人という存在、そして集団間の関係には葛藤が生じざるを得ないが、こうした葛藤を(進歩政党が)少し違う形で解決することを(国民は)願っていたのだと思う。そのような努力はできなかった…。私はそのような失望を抱かせた一人であり、責任は重い」と語っている。ノ・フェチャンも、分党で進歩政党は大きな打撃を受けたと述べている。彼は2014年に出版されたオーマイニュースのク・ヨンシク記者との対談集『大韓民国の進歩、どこへ向かうのか?』で「分党により、私が初期に打ち立てようとしていた進歩政党の像は事実上崩れた。私にとって民主労働党の分党が意味することはそれだ」と述べている。

 だが、分裂が進歩政党を駄目にしたというのは本当だろうか。分裂と葛藤の真っただ中で、進歩政党が見逃していることはないのだろうか。

 ノ・フェチャンが「保守政党」と言って批判した民主党が、盧武鉉の「進歩」を受け入れ、米国風のリベラル政党に変身しつつあった時、進歩政党が変化を怠っていたわけではない。2012年の統合進歩党問題後に離党した勢力は、進歩正義党を経て2013年に正義党を結成した。「進歩正義党」から「進歩」を取り去り「正義党」と名を決めたのは、より大衆的な政党を目指そうという苦悩の発露だったはずだ。マイケル・サンデルの『正義とは何か』(日本語版は『これからの「正義」の話をしよう: いまを生き延びるための哲学』)が韓国社会でブームを巻き起こし、「正義」言説が噴出し始めた時だった。階級・階層の対立より普遍的人権と正義という価値を強調するとともに、幅広く人々を引き入れるという意味が党の名に込められていた。これが正しい選択なのかについては論争があるが、時代の流れを追う努力だけは評価に値する。

 その時分、ノ・フェチャンは「進歩の世俗化」を強く唱えていた。2012年の大統領選挙でのセヌリ党の朴槿恵(パク・クネ)候補の当選後、進歩政党の立ち位置が一段と狭まっていた時だった。ノ・フェチャンの表現を借りれば、進歩は怖がりの野党第一党(民主党)も頻繁に用いる良い言葉となり、セヌリ党が経済民主化を、朴槿恵が満5歳までの無償教育を叫ぶ時代になっていたからだ。「進歩と反進歩が対立するのではなく、真の進歩とニセの進歩が競争する時代」となっていたからだ。「進歩の世俗化」とは、それまでの観念性を捨て、世の中に分け入って現実的な政治を行おうというものだった。「進歩の価値は、政治化される分だけ実現する」とノ・フェチャンは主張した。特に「進歩政治がきちんと行われるためには、運動圏を克服しなければならない。運動圏を否定することはできないが、それは過ぎ去った過去の話だ。信仰と政治は違う。信仰は自身を保っていればいいが、政治は絶えず国民を説得し、同意を求めるものだ」と強調した(『大韓民国の進歩、どこへ向かうのか?』)。

 オーマイニュースのク・ヨンシク記者は「世俗化という用語はそれほど肯定的な語感ではない。にもかかわらず、ノ前議員があえてこの用語を使ったのは、運動圏的態度を完全に脱して現実に密着した政治を行おうという趣旨だった。同じ脈絡から、(改良主義と批判された)社会民主主義の方が社会主義よりもよっぽど現実的で望ましいと考えた。その点でノ・フェチャンは議会主義者であり、政党主義者であり、一方では社会民主主義者だった」と述べている。

 2015年に制定された正義党の綱領には「社会民主主義の成果を創造的に発展させる」という一節がある。しかし、この一節は綱領の中間に挿入され、集中して読まなければ見つけるのは容易ではない。過去には改良主義、または過激だという左右両側からの批判にさらされた「社会民主主義」は今や、進歩政党の前面に掲げるにはあまりにも古めかしい単語となってしまった。その点で「社民主義」という言葉には、あまりにも多くのことを避けようと努め、今もそのようにしている韓国の進歩政党の顔がそのまま表れている。

//ハンギョレ新聞社

パク・チャンス|先任論説委員。本紙で政治部、社会部、国際部の記者を歴任。国会と大統領府の取材を通して「政治とは結局、権力の行使を通じて社会を変えること」と考えるようになり、そのことから、どうすれば権力を十分に、正しく行使できるのかに深い関心を寄せる。著書に、韓国大統領府とホワイトハウスの機能のあり方を比較した『青瓦台vsホワイトハウス』(2009年)、1986年に胎動した民族解放(NL)の思潮を扱った『NL現代史』(2017年)がある。 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/964456.html韓国語原文入力:2020-10-05 16:13
訳D.K

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