ついに来るべきものが来た。自動車を売って食べている日本に警告状が舞い込んだ。日本の自動車がロシアのウラジオストク税関で放射線量が1平方センチ当たり4ベクレルを超え、ユーラシアへの通関が拒絶される事態が発生したのだ。自動車までもが汚染されているとは、汚染の酷さを物語っている。今後がさらに懸念される。数万種類の部品のどこから放射能が出るのか分からず、元を絶つ対応が難しい。
他人事ではない。東南海岸に集中している原発のどれかで事故が起きれば、人はもとより、自動車、造船、鉄鋼のすべてが危機に直面する。半世紀にわたって築きあげてきた経済も大きな打撃を受ける。狭い国土と民族はどうなるのか。
もう一つの衝撃的なニュースは、原発建設単価が5兆ウォン(約4580億円)を上回るということ。十数年前の2倍以上だ。もともと危険部門をきちんと計上すれば決して安価にはならないが、これまでも欺瞞的に危険を安い価格で包み隠していたに過ぎない。こうした欺瞞は「脱原発」政府が正さなければならない。
もともと原発は生まれからが問題だった。東芝で原発エンジニアとして格納容器の設計をしていた日本の原子力市民委員会の後藤政志委員は「技術は失敗とミスを通じて発展する。だが原発は失敗が許されない存在だ」と喝破する。つまり核エネルギーは科学の領域にあるのであって技術の領域にはないのにもかかわらず、資本の論理に巻かれて研究室の外に出たこと自体が問題なのだ。
少なくとも福島事故以前と以後は違わなければならない。以前までは知らなかったが、今は違う。知っていて犯す罪の方がはるかに重い。それ以前は産業の担い手として認めることもできた。今は違う。事故は必ず繰り返される。
何よりも核廃棄物は子孫に不寝番の犠牲を強いる。これを知りながら「強いること」は、まさに我々が息子や娘たちの誤った手本となるということだ。「お前たちも子供たちにそんな犠牲を強いてもいい」という黙示的な手本だ。この悪魔的な過程が見えないのか。民族と人類に対する反逆も同然だ。
原発は暴騰する価格や建設期間の面から見ても、気候危機の代案にはなり得ない。仮に、原子力産業界に総力を傾ける機会を与えて2050年までに毎年32基ずつ世界各地に原発を建て、現在の3倍にまで増やすことができたとしよう。そのように計算しても温室ガスの6%しか削減できない。人類滅亡の危険を甘受してもたった6%とは。「代案」という言葉をどうして口にすることができようか。
「脱原発」がスローガンに止まっている現政府も、もう腰を据えるべきだ。原発輸出も止めなければならない。原発は何よりもまず核兵器の生産手段だ。源となる技術なしにサウジアラビアに輸出を図り、昨秋米国に挫折させられた事件は何を語るのか。何よりも自分が「脱原発」を目指しながら他国に「潜在的な凶器」を輸出するということ自体が道徳的たりえない。後でその国が誤った扱いをして問題が生じても我々の責任だ。民族次元の負債となる。いち政権がその責任を負えるのか?
我々が手本としてきた米国の原子力委員会(NRC)のグレゴリー・ヤツコ委員長も言い切る。「原発はそれ自体が核兵器で、実存的脅威であり、統制できなければ人を殺し国土を破壊する」。今こそ「地球を救う時」だと。
にもかかわらず、(原発を)しつこく褒め称えるメディアがある。彼らの下心は見え透いている。原発は初期の発注金額が大きく、少数の資本が談合しやすい。4大河川工事が強行された原理と同じだ。資本の広告に依存するメディアを含め、いわゆる“お膳立て”で見返りを得る構造だ。(原発も)似ている。そのメディアの一つは、それまで4河川再生を主張していたが、ある瞬間から正反対の趣旨を持つ4大河川工事を称賛し始めた。そのメディアが、日帝強占期(日本の植民地時代)と6・25の時に何をしたか。我々はかつてそのメディアが行っていたことを知っている。メディアは国民から委任されてはいないが、権力だ。もともと権力とは諸刃の剣だ。振り誤れば、まず自分が怪我をする。原発称賛に明け暮れるマスコミは、その危険を避けることはできない。
イ・ウォニョン水原大学教授、韓国脱核エネルギー学会(準)準備委員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )