終戦はまた、癒やしの政治のために必要だ。戦争は生き残った人の魂も破壊した。戦後の分断体制は「承服できない人々の復讐心」を刺激して再生産した。癒やされない傷はしばしば憎しみとなり爆発し、「一時的に中断した戦争」の火種を蘇らせた。敵対と憎悪は、決して自然に良くなることはない。
1953年7月27日その日、戦争は終わらなかった。午前10時に休戦協定に署名した時も砲声は止まなかった。12時間が過ぎた午後10時、ようやく夏の夜の虫の声が聞こえた。その日の署名と発効の間の12時間が将来を予告した。休戦に署名しても爆撃を中断しなかったという逆説が戦後を規定した。勝者も敗者もなく、勝てないということを知りながらも負けまいとした戦争は、その日終わらなかった。熱い戦争は冷たい戦争に顔を変えて続いた。65年の歳月が流れた。二世代に及ぶ長い歳月だ。もう戦争を終わらせる時ではないか?
終戦とは何だろうか。「ベルダンの握手」のようなもの。ベルダンはフランスとドイツの境界地域の都市で、1916年第1次世界大戦当時、10カ月間に71万人が死亡した世界に類例のない激戦地だ。1984年9月、フランスのミッテラン大統領とドイツのコール首相がベルダンで会った。二人はフランスとドイツの無名勇士13万人が埋葬されたデュオモンの納骨堂で握手して、和解を誓った。ベルダンは100年間かけて悲劇の現場から和解の空間へ、残酷な戦場から平和の首都に生まれ変わった。
二度の世界大戦を体験したフランスとドイツの和解は、もちろん一日で成り立ったわけではない。両国の指導者がしばしばベルダンで会った理由は、戦争の残酷さを記憶し、再び悲劇を繰り返すまいという省察のためだ。朝鮮半島にはベルダンがとても多い。板門店(パンムンジョム)で南北の首脳は今年だけで二度握手した。その後南北は軍事会談を持ち、朝鮮半島のベルダンである非武装地帯の平和を議論した。今こそ白馬(ペンマ)高地に埋められた無名の犠牲者の遺骨を収拾し、慰霊すべきではないだろうか。終戦とは、記憶と省察であり、和解のための握手だ。
終戦はまた、癒やしの政治のために必要だ。戦争は単に亡くなった人と負傷した人、残酷な破壊と疫病だけを意味するものではない。戦争は生き残った人の魂も破壊した。戦後の分断体制は「承服できない人々の復讐心」を刺激して再生産した。癒やされない傷はしばしば憎しみとなり爆発し、「一時的に中断した戦争」の火種を蘇らせた。世代が変わっても傷は癒えなかった。敵対と憎悪は、決して自然に良くなることはない。
戦争が残した最も致命的な傷は「暴力の崇拝」だ。いまだに「平和を望むならば戦争を準備せよ」という古代ローマ時代の格言を言う人々が少なくない。完全に見える人がそのような言葉を言うたびに、私は衝撃を受ける。大量殺傷兵器による絶滅の危険を甘受しなければならない現代の戦争は、古代ローマ時代の戦争とは比較できない。その言葉は「愛の鞭」同様に形容矛盾だ。愛は暴力とは似合わない。なぜ愛するのに暴力を使うのか。平和を望むなら、当然に戦争ではなく平和を準備しなければならない。
「暴力で維持する平和」は一時的で長続きはできない。「平和的手段による平和」のみが持続可能だ。終戦宣言で持続可能な平和の共感を集めなければならない時だ。平和教育を経験していない世代に、民主的な葛藤の解決を期待することは難しい。南北の平和とともに、私たちの中の平和を作る時だ。幼い時から平和の感受性を育て、合意を集める民主主義を体験するべきだ。戦後一度も試みたことのない真の意味の「癒やしの政治」を始めるべきではないだろうか。
非核化と終戦宣言の関係を誤解している人々も少なくない。終戦宣言は平和体制の開始であり、平和の意志を反映する。果たして不安定な停戦体制を恒久的な平和体制に転換せずに非核化という目標を達成できるだろうか?非核化過程を促進するためにも、終戦宣言を後送りする理由はない。非核化の入口で終戦宣言をして、中間地点で平和協定を締結して、出口で平和体制を完成しなければならない。
65年前に終わっているべき戦争だ。終戦宣言が早すぎる?遅いと言えばあまりに遅すぎた。歳月が流れても、戦争の傷は良くはならなかったし、相変らず暴力崇拝が相続されている。離散家族のような戦争の傷を、これ以上先送りせずに治療しなければならない。激戦の白馬高地で、冷戦の海である西海(ソヘ)で、しばしば手を握り和解を誓わなければならない。それでこそ共同繁栄の未来に進むことができる。そして分断の歳月を体験した私たち皆に、癒やしの政治が必要だ。今こそ戦争を終わらせよう。