背筋が寒くなった。クーデターのない世の中、「軍がもはや国民を踏みにじることは不可能な時代」と信じて生きてきた。昨年3月、国軍機務司令部が作成した「戦時戒厳および合同捜査業務遂行方案」を通じて、そうした信頼がどれほど脆弱だったかを思い知った。
2016年10月29日「朴槿恵(パク・クネ)退陣第1次ろうそく集会」以後、ソウルの光化門(クァンファムン)広場では4カ月以上にわたり平和的集会が続いた。弾劾に反対する太極旗集会も概して平和的だった。だが、機務司令部は憲法裁判所の決定に従わないデモ隊が大統領府・憲法裁判所への進入・占拠を試み、警察署に乱入して放火、武器奪取を試みると予想した。あきれた展望に基づいて「軍次元の備えが緊要だ」として、衛戍令、戒厳令など軍の介入方案を用意した。市民を潜在的暴徒と規定し、大統領府・光化門・汝矣島(ヨイド)などソウルの主要地域に戦車200両、装甲車550台、武装兵力4800人、特戦司令部1400人を投じる計画も提示した。
自由韓国党の議員らは強弁する。「こうした対策もないならば、それは軍だろうか」(キム・ヨンウ議員) 「最悪の状況に備えないのは軍の職務遺棄だ」(キム・テフム議員)危険千万な発想だ。検討計画であるから問題ないのではなく、胸をなで下ろさなければならない。実行されていたならば、国民の抵抗に直面しただろう。街頭は血に染まり、多くの人が逮捕・投獄・拘禁されただろう。考えただけでも鳥肌が立つ。
自由韓国党の論理は、1979~80年の12・12クーデターや光州(クァンジュ)虐殺で権力を簒奪した新軍部の論理と似ている。全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官とイ・ヒソン戒厳司令官は、光州抗争を呼び起こした1980年5月17日の戒厳令の全国拡大に先立ち、5月3日からあらかじめ特戦司令部など主要兵力を移動・集結させていた。9空輸旅団首都軍団配属、13空輸旅団ソウル移動、11空輸旅団金浦(キンポ)移動…。イ・ヒソンは、1995年4月検察の調査で当時の状況を「学生たちが始業した以後、学内問題をイシューに構内デモが広がり始め…、結局全国的な騒乱があると判断されて、それに備えたものであり、戒厳が拡大するということは全く予想できなかった」と主張した。全斗煥は、戒厳令全国拡大、政治活動禁止など6項目のいわゆる「5・17時局収拾方案」を崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領に要求したことについて、自叙伝『全斗煥回顧録』に堂々と書いた。「私は崔圭夏大統領政府の崩壊危機を克服するため5・17時局収拾方案を建議差し上げた。そのことは大統領の情報参謀としての私の職務遂行だった」。最悪の状況に備えて職分を尽くしただけなのに、暴徒が暴れて最悪が現実になったということだ。その結果は光州虐殺と権力簒奪、民主主義の窒息だった。
私たちは、87年6月抗争、軍の私組織「一心会」清算、度重なる平和的政権交替で、軍の介入はもはや不可能だという共同体的確信を持つようになった。だが機務司令部は、兵力動員計画を明記した検討計画に国民の基本権侵害など違憲の素地はあるが、軍の直接責任はないとし介入を正当化した。「衛戍司令官は軍兵力に対する発砲権限を厳格に統制」しなければならないとし、「(1)暴行を受けやむを得ない時、(2)多数の人員が暴行し鎮圧する手段がない時」などと発砲可能時期も明示した。非常戒厳時は、中佐・大佐級の要員で戒厳協力官を編成し、政府部署を指揮・監督して合同捜査本部を作り情報捜査機関を調整・監督し、集会・デモ主導者を探索、司法処理すると明記した。新軍部とあまりに似ている。
機務司令部は解体しなければならない。いかなる場合にも、軍が国民に銃口をむけることができないよう、誰の指示で、誰が戒厳令の宣言と兵力動員計画を議論したのかを明らかにし厳罰に処さなければならない。