「形式が内容を決める」。2013年6月、朴槿恵(パク・クネ)政権が会談代表の格(地位)が合わないとして、南北閣僚級会談を決裂させる際、放った言葉だ。その後の紆余曲折を経た長い道のりの末、やっと実現された南北会談が何の成果もなく終わった。形式にこだわり過ぎたあまり、“最初に掛け違えたボタン”がもたらした、予定された失敗だ。
先週、北朝鮮は次官級会談の名簿を通知する際、何の役職表記もなく「北側団長チョン・ジョンンス」と書いて送った。格をめぐる対立を避けるためのものだった。公式の南北会談で、何の役職を表記せずに名簿を通知したことは、これまでない。次官級という形式もこの問題と関連している。一般的に、次官級会談は実務会談だ。実務会談のための実務接触を行ったわけだが、これまで見たことの内奇妙な風景だ。これもまた“閣僚級”をどのように解釈するかをめぐる南北の認識の違いを避けて通るための方策だった。
果たして南北会談で形式がそこまで重要なものだろうか?会談の過程を見る限り、なぜ会談の形式にそこまで執着したのか、理解できない。2日間会談が開かれたが、実際に対話した時間は3時間にも満たない。短時間の会談後、長時間休会する、最近行われた南北会談のおなじみの風景だ。
会談初日、第1回目の首席代表間の接触は、30分で終わった。それぞれ基調演説を行ったが、何の質問もせずに、そのまま別れたということだ。そして、7時間もの間、休会した。会談代表に質問する裁量権もないのか? 8月の高位級接触でも数十分会ってから、数時間待つことが繰り返された。過去のように大統領府の会議を通じて訓令が決まるわけでもない。大統領を除いて誰も決定権がないため、とにかく待つしかない。それなら、課長級でも次官級でも閣僚級でも何の意味があるだろうか?
形式にこだわる人は、概して内容が伴わない。内容の面で何を得るのかについての判断は、相手の意図に対する分析から始まる。北朝鮮がもう一度実務会談をしようと提案したのは、韓国側の意志を判断するためだった。北朝鮮の交渉戦略は、すでに何度も確認されたが、離散家族を金剛山観光と連携するというものだ。韓国側が金剛山観光についての立場をはっきりと決めない限り、離散家族が再会できないというのは、会談前から誰でも予測できる内容だった。にもかかわらず、韓国政府は金剛山観光(再開)には難色を示し、離散家族の再会だけを進めようと提案したのだ。
苦労を重ねて実現した会談である。韓国政府が3回も閣僚級会談を開こうと要請してきた。すでに実務接触の過程で双方の立場も確認した。会談を提案したのなら、少なくとも現在の膠着状態を打開する解決策は用意して置かなければならないのではないか。この程度の提案ならば、会談の決裂は目に見えていた。残りの議題は言うまでもない。当面の懸案も解決できないのに、それよりも難しい議題をどのように議論するというのか。
内容がなければ、形式も成り立たない。大統領が外国首脳との会談で統一を口にすると、相手国首脳はこう尋ねるだろう。「あなたは統一のためにどのような努力をしているのか」と。だから(目に見える)南北会談の形式が必要なのかもしれない。しかし、ショーは一人でできるようなものではない。相手側もショーが必要でなければならないが、もう北朝鮮が調子を合わせてくれるとは思えない。 8月以降整えてきた短い対話局面は、これから元の長い梗塞局面に戻るだろう。
高慢と偏見は暴力の領域であっても、交渉の徳目にはなれない。徒花に実は生らなかった。再び会談決裂の責任を相手に押し付け合い、その繰り返しが不信を増幅して関係を梗塞させるだろう。そうやって時間だけが流れて行く。いつか再び会談する機会が来たら、その時はこの言葉だけは忘れないでもらいたい。「内容が形式を決める」
韓国語原文入力: 2015-12-13 18:45