残酷な虐殺は戦争が終わった後に起こった。1945年、日本は第2次世界大戦で敗れた。 その直後の8月20日からの数日間、日本人たちはサハリン瑞穂集落で朝鮮人27人を虐殺した。 戦争で負けた腹いせとともに、朝鮮人がまもなく進駐してくるソ連軍に協力し日本人たちに危害を加えることを憂慮したためだ。 狂気に陥った日本の極端主義者らは朝鮮人という理由だけで一つの集落に暮らしていた若者、老人はもちろん女性や赤ん坊まで虐殺した。
当時、ソ連の情報機関は61歳の農民ユン・ヤンウォン氏の証言を確保した。内容を整理すれば次の通りだ。「私は友人のチェ・ジョンファンが暮らしている瑞穂集落に牛を買いに行った。彼の日本人妻が『8月に(彼の)友人は殺された』と告白した。 8月ロシア人たちが上陸した時、日本の憲兵の命令により瑞穂集落のすべての朝鮮人が殺害されたと言った」。ソ連の国家安保部ユジノサハリンスク担当捜査官の尋問記録も残っている。整理すれば「8月21日か22日に、私の夫は朝鮮人という理由で殺害された。警察官のイシダが朝鮮人を一カ所に集め、30人近くを殺した」ということだ。 1951年からサハリンで歴史教師として仕事をしたコンスタンチン・カポネンコ氏は、1990年代に公開されたロシア側文書に基づいてこの事件を本に残した。彼は当時の捜査と裁判記録を土台に、この事件が日本の民族主義者による平和的な朝鮮人住民に対して行った極度に残忍な蛮行であることを明らかにしている。 韓国の「日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会」も2008年、「サハリン瑞穂集落 朝鮮人虐殺事件真相調査」報告書(調査責任者 パン・イルクォン)を出した。
「世界韓人の日」である5日、サハリンのユジノサハリンスク州立図書館で「韓国・ロシア友好文学の夕べ」が開かれた。 この日、カポネンコの著書が韓国語翻訳版『サハリン瑞穂集落の悲劇』(セムン社)が初めて披露された。 「1945年8月 日本人の韓人虐殺蛮行に対する追跡と記録」というサブタイトルが付いていた。チャン・ハンナ氏が翻訳し、詩人のキム・ビョンハク氏が監修を務めた。