去る11日、慶山(キョンサン)高校生自殺事件の加害学生は容疑を否認しているという。 そしてある加害学生は‘死にたい’と言いながらきわめて不安な心理状態にあるという。 警察の捜査が終えられれば検察はこの生徒たちを起訴するだろうし、裁判所は昨年の大邱(テグ)自殺生徒の場合のように加害生徒に重刑を求刑するだろう。 果たしてそれが解決策であろうか?
カナダのプレストンという所では6000ドルの予算で相談員を雇用し、二日間子供たちに演劇を通じて集団いじめの苦痛を感じさせているという。 演劇を通じていじめがどんな結果をもたらすかを実際に感じさせる実験だ。 子供たちが仲間の境遇を理解し共感させようとの趣旨だ。 100校以上の学校を訪問した経歴のある相談専門家は「これは法律的イシューではなく社会的イシューだ」と強調した。
ところで過去の李明博政府では警察総帥が学校暴力を治安問題と見なして専門担当警察官を配置して、教育部長官は学校別に暴力件数を公開させ圧迫を通じて暴力を減らそうとした。 本当に呆れ返る発想だった。 加害生徒に厳罰を加えたり教科部など関係部署が84ヶの対策案を羅列して公務員と教師たちに圧迫を加えても、数百億ウォンの予算を投じて学校や路上要所要所にCCTVを設置して相談教師を配置しても、教育部長官が教師・父母を集めてトークショーを開いても、学校暴力は減るどころかさらに深刻な形で続いて、今回の慶山の生徒自殺事件のように学校当局が上部の問責を避けるために暴力情況を知っていながら伏せておく事態まで発生することになった。
ところで韓国の学校はカナダのような程度の教育的措置を取る最小限の準備さえできていない。 現在、韓国の学校で生徒たちに共感を教えるということは木から肉を作ることのようだ。 すべての教育課程がひたすら入試戦争の戦士を育てる作戦に組みこまれている韓国の学校で、このような演劇治療などの教育的措置を取る準備や余裕がどこにあるだろうか?
政府の学校暴力対策を見れば、狭い鳥小屋の中に鶏数十匹入れておき、おとなしくしていなければ殴り倒そうとしているように見える。 こうした地獄のような鳥小屋の中の鶏が生き残るために悲鳴をあげたり相手方をつつきまくらないならば、それがむしろ異常なことではないか? 学校暴力で加害・被害の区分は無意味だ。
事実、韓国で集団いじめは学校が解決できる次元を越えて久しい。 すべての社会が強者が弱者をむやみに踏みにじるように教え、手段と方法を選ばずに強者になった者が一点の恥ずかしさも持たずに自身を正当化する社会で、どうして生徒たちに隣の生徒の苦痛を理解しろと話せるだろうか? 被害者の抗弁を誰も聞き入れず、組織内の不法と暴力を告発すれば逆に背信者だとして報復をする社会で、どうして傍観者であり目撃者である大多数の子供たちに暴力生徒たちを告発しろと教えることができようか? 教育問題が治安問題になることについては、教育者や政治家こそが本当に恥じなければならない。 それにしても韓国政府や教育部責任者は本当に面の皮が厚い。 今日の学校で教育が完全に失踪したということを認めたくないからなのか? 今日の政治や社会、そして学校が生徒たちに何も教えることがないということを認めたくないからなのか?
どうか正直になろう。 子供たちの問題は本質的に大人たちが作ったことであり社会の問題だ。 加害者は暴力を行使した子供たちではなく、まさに‘あなた’たちだ。 子供たちに成績機械ではない人間として接しろ。 そうすれば正しい代案を用意できる。
キム・ドンチュン聖公会大社会科学部教授