<年が明け、米国政府はガザ地区平和計画の第2段階への移行を公式に宣言した。ガザ地区の非武装化と再建を推進し、行政を担う機関を次々と設立した。しかしイスラエルの首相は、どれほどかかるかわからないハマスの非武装化なくして再建もないと明言している。昨年10月の停戦以降、イスラエルの攻撃で500人以上が死亡し、死者の総数は7万人を超えている。ハンギョレは、社団法人ADIとパレスチナ女性委員会連合(UPWC)の協力を得て、戦争で苦しむパレスチナ住民へのインタビューを手紙のかたちで順次掲載している。>
人類愛というものがまるでうそのように消え去り、全世界がこのすべての犯罪を無視しているように感じました。私の母、ハナア・ハワ(68歳)の切断された足もその一つでした。
私はガザ地区で活動しているパレスチナ女性委員会連合南部支部のコーディネーター、イスラム・ハワ(37歳)です。2023年10月にガザ戦争が始まり、死のにおいが四方で漂っていました。私たちが住んでいたガザシティには、もはや安全な場所はありませんでした。戦争が勃発してから1週間後、私と夫、息子、娘、そして母は一緒に避難しました。私には5人の兄弟と2人の姉妹がいますが、私は1人で母を支えなければなりませんでした。母は15年前に父を失い、1人になりました。母と私の家族が南に来て以降、イスラエル軍が北部と南部の間を遮断したため、ガザシティ北部にいた兄弟姉妹は母と一緒にいることができませんでした。
私たちは、占領軍が「人道地区」に指定した、ガザ地区南部ハンユニスのアル・アクサ大学に設置された避難キャンプに移動しました。その年の12月、イスラエル軍は突如としてハンユニスでも作戦を開始し、私たちの家族はさらに南にあるマワシに避難しました。
母の足の指が黒く変色しているのを見つけたのは、戦争が始まってから9カ月たったある朝のことでした。急いで母をハンユニスにあるナセル病院の国境なき医師団の診療所に連れて行きました。CTで検査したところ、慢性糖尿病の合併症により足の周囲の動脈が93~97%詰まっていました。医者には、切断を避ける唯一の方法はラファにあるヨーロッパ病院で血管拡張手術(血管形成術)を受けることだと言われました。しかし、その病院はイスラエル軍の占領地域にありました。
3カ月間、毎日診療所を訪ねてドレッシングを交換し、血液の循環を促す薬を服用しながら、ヨーロッパ病院で手術を受ける日ばかりを待ち続けました。しかし、その日はやって来ませんでした。黒い部分は母の足全体に広がっていきました。医者は最終的に、左足の指と足の一部を切断しなければならないという残酷な決定を下しました。
2024年9月5日、母は足の指を3本切断する手術を受けました。しかし手術の数日後、医者に足を再度切断しなければならないと言われました。母の胸は引き裂かれました。むしろ砲弾にあの世に送ってもらうことを願うほどでした。結局、2週間後に残りの足の指も切断されました。
私は母に人生の小さな希望をあげるために、車いすを手に入れようとしました。しかし、イスラエルはガザ地区を封鎖し、医療機器の持ち込みも止めてしまいました。私はあらゆるドアをノックしました。1カ月の努力の末、古い車いすを200ドルという大金で購入しました。母の治療費や特別食、さらには車いすまで、私の稼いだ給料だけでは、高騰する物価の中、母と家族を養うのは簡単なことではありませんでした。
私は、母の苦しみはここで終わるだろうと思っていました。しかし、手術を受けてから4カ月たったある日、消毒をしていた看護師が母の足から骨が飛び出してきそうになっているのを見つけました。医者は単なる除去手術だと言って、心配するなと言いました。問題は、施術後に抗生物質の処方を受けられなかったことでした。施術の2日後、母は高熱で倒れました。ナセル病院へ向かう途中、母は意識を失いました。
診断結果は敗血症による低血圧と心機能の低下でした。意識を失って8日後、目覚めた時には、母の脚の状態は急激に悪化していました。医者たちは母の命と脚のどちらかを選べと言い、一日だけ時間をくれました。それは私がこれまで生きてきた中で最も苦しく、残忍な要求でした。
2025年1月14日、母は脚を膝上まで切断する手術を受けました。母は生きる理由がなくなったと言って、食事も薬も拒否しました。少しでも食事するように母を説得するのに長い時間がかかりました。
その後、私は単に車いすを押すだけでなく、完全に母の世話をしなければなりませんでした。母は脚と共に言葉を失い、深いうつと悲しみの中へと沈んでいきました。子どもたちが電話をかけてきて、切実な声で母に話しかけましたが、母の沈黙を破ることはできませんでした。昨年10月に停戦の知らせが届いた時も、母は沈黙の中にとどまっていました。ガザシティにあった私たちの家はイスラエル軍に破壊され、帰る場所を失った私たちはこの難民キャンプにとどまり続けています。
母はもう2本の足で歩いて子どもたちを抱きしめることができません。私の誕生日に突然やって来て、サプライズでお祝いもできません。母の脚だけでなく、私の心の一部も一緒に切断されてしまいました。時が流れても、私の心の奥深くの傷が癒えることはないでしょう。
私は母がテントの中にばかり引きこもっていないよう、車いすを押してマワシを歩きます。私たちの目には、多くの苦しんでいる人たちが見えます。脚を失っても痛み止めすらないため一晩中泣き叫ぶ子ども、家族が全員亡くなり1人とり残された女性、仕事を失った息子の代わりにパン代を乞う老人。この残酷な戦争が終わらない限り、苦しみと絶望に満ちた物語は続いていくでしょう。