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廃墟となった故郷…それでも帰って家の敷地のテントで暮らしたい[ガザからの手紙]

登録:2025-11-04 09:29 修正:2025-11-04 10:43
[ガザからの手紙] 
50歳のラニア・スルタンさん 
2年間で6つの難民キャンプを転々 
家賃はロケットのように高騰
セウォル号、済州4・3、済州海女抗日運動などを作品に描いてきた画家のキム・ホンモさんが、ラニア・スルタンさんの写真を見て肖像画を描いた=キム・ホンモ//ハンギョレ新聞社

<イスラエルとパレスチナのイスラム組織ハマスは、ガザ戦争勃発から丸2年にあたる日の2日後の先月9日に休戦協定を結んだ。イスラエル人の人質の遺体返還とハマスの武装解除をめぐって対立が続く中で第2段階の水面下での交渉が進められるという、危険な休戦だ。ハンギョレは社団法人ADIとパレスチナ女性委員会連合(UPWC)の協力を得て、戦争で苦しむパレスチナ住民のインタビューを手紙のかたちで連載する。>

 私はラニア・スルタン(50)です。1975年にパレスチナのガザ地区北部、ベイトラヒヤで生まれました。私の先祖たちは覚えられないほど昔からこの地で暮らしてきたパレスチナ人です。私が育ったのは、海に近い漁師と農民たちの小さな村でした。父はオレンジを売る商人でした。しかし、イスラエルの入植者たちが一帯のオレンジの木を伐採してしまったため、両親は畑で作った野菜を売って10人の子どもたちを育てなければなりませんでした。

 私が生まれる前の1967年の6日戦争(第3次中東戦争)の時、両親は故郷を離れて避難しました。ユダヤ人は出会うすべてのパレスチナ人を殺しました。私の親戚からも多くの殉教者が出ました。ユダヤ人たちは父の叔父に地面を掘らせてから、その穴に入らせて撃ち殺しました。父はパレスチナ解放軍に加わりました。父が生き残ったのは奇跡でした。

ラニア・スルタンさん=本人提供//ハンギョレ新聞社

 11歳の時に「1948年の地」を旅したことを思い出します。ハイファ、ナザレ、西エサルレムなどの「ナクバ」以前にパレスチナ人が住んでいたところです(ナクバはアラビア語で「大災害」を意味し、1948年5月のイスラエル建国で75万人のパレスチナ住民が故郷を追われた事件を指す)。どこも素敵なところでしたが、その記憶すら、イスラエルの占領軍が守る検問所を通る時に感じた恐怖で汚れています。

 私が12歳だった1987年、最初のインティファーダ(民衆蜂起)が起こりました。占領軍は、学校で勉強している私たちに催涙ガスとゴム弾を撃ちました。私も石を投げました。私の兄弟の一人は占領軍の監獄に入れられました。夜8時には通行が禁止されました。出歩いていた時に占領軍に見つかって殴られ、果ては殺された人もいます。私の家も占領軍の兵士たちが押しかけきて捜索されました。とても怖くて泣いたことを覚えています。

 2000年の2度目のインティファーダの時は、子どももいたので恐怖は2倍でした。家の周りが爆撃されて家を出ることもできませんでした。恐怖におびえた子どもたちはしばらく食べることも寝ることもできず、トイレに行くのも怖がりました。

 幼い頃は、大きくなったらジャーナリストになりたいと思っていました。世界的な放送局の記者になって、世界中を回りたかった。でも16歳で結婚することになり、学校を辞めました。4人の娘と1人の息子を産みました。今は31歳と29歳になる娘たちは大学を卒業して結婚し、孫もいます。農業環境工学を専攻した27歳の息子オマルは、ガザシティにあるイスラミック大学で修士論文を書いていました。三女(20歳)は大学で建築を学んでいました。末娘(17)は高校生でした。

ラニア・スルタンさん(左から2人目)と家族=本人提供//ハンギョレ新聞社

 育児中も学業を修了したいという思いが頭から離れませんでした。だから30歳の時に、学校を辞めてから14年ぶりに学業に復帰しました。ベイトラヒヤにあるクドス開放大学の分校に入学したのですが、定期的に通えなかったため人一倍努力しなければなりませんでした。基礎教育専攻で学士課程を修了した時は、感激で涙が出ました。

 38歳からはパレスチナ女性委員会連合(UPWC)所属のフェミニスト活動家として、ガザ地区北部で女性と子どもたちのメンタルヘルスを支える仕事をしています。女性たちに奉仕し、女性たちの権利回復を支援する仕事です。

 でも、このような私の暮らしと子どもたちの夢は、2023年のガザ戦争で破壊されてしまいました。前庭にグアバの木があった美しい私の家族の2階建ての自宅は、完全に破壊されてしまいました。学校が破壊されたため、子どもたちは学業を中断しなければなりませんでした。私を含むスルタン家の860世帯の親族が暮らす村も爆撃され、完全に破壊されました。

ラニア・スルタンさん(中央)とその息子(左)、夫(右)=本人提供//ハンギョレ新聞社

 最も苦しくて恐ろしいのは、私の家族や親戚が空爆で命を落としたことです。今年5月16日の午前0時過ぎ、私の叔父(91)の家に爆弾が落ちました。叔父といとこのイフサン(49)、その妻のノハ(45)、その子どものマジド(27)、モハメド(22)、リム(16)、バハ(15)の一家7人全員が死にました。翌日にはいとこのリヤド(35)とナセル(22)が叔父一家の遺体を収拾しに行く途中、空爆されてその場で世を去りました。

 私の姉妹の家も空爆されました。助けに行きたかったのですが、イスラエル軍の無人機がしばらく周囲を低空飛行しながら爆撃を続けていたため近づけませんでした。救助隊も、隊員が犠牲になる恐れがあるため出動できませんでした。幸い妹は大きなけがはありませんでしたが、妹の夫はひどく負傷し、回復に時間がかかりました。

ラニア・スルタンさんが住んでいた家=本人提供//ハンギョレ新聞社

 2023年10月7日の戦争勃発から5日後、私の家族はベイトラヒヤを離れました。北部ガザの市を経て、中部ヌセイラトにある学校に作られた難民キャンプへ。翌年の1月からは中部デイルアルバラで1年以上過ごし、60日の休戦でベイトラヒヤに戻りました。3カ月後の今年5月にはまたガザシティに避難しました。先月からイスラエル軍は、ガザシティに残っていると死ぬから避難しろという内容のビラを撒いています。結局、9月16日にまたデイルアルバラに移ってきました。

 この2年間で6つの避難キャンプを回りましたが、平穏だったことはありません。今回デイルアルバラに移ってくる時は、移動手段を手に入れることすらとても大変でした。7人家族の私たちは400ドル払って車で来ることができました。服や布団などの本当に生活に必要なものだけを載せて。長女のショルク(31)の家族は3日も待ってようやく、500ドルでドライバー付きのトゥクトゥク(三輪車)で来ることができました。次女のヒバ(29)は移動手段が見つからず、夫と5歳と2歳の子を連れて中部のヌセイラトの難民キャンプまで12キロ歩かなければなりませんでした。

 デイルアルバラは人が押し寄せ、家賃がロケットのように高騰しています。テントを買うには1千ドルかかるし、土地代も払わなければならないため、ほとんどの人々はなす術がありません。イスラエル軍は、テントがガザ地区に運ばれるのを妨害しています。そのため、救援団体から配られたテントではとても足りません。

 代わりに月500ドルで一間の部屋を借りました。私たちの部屋には扉がありません。トイレには窓がありません。水も出ません。同じ家の別の部屋は知らない人たちが使っています。私の家族5人、マットレスもないところで寝なければなりません。それでも、部屋を得たこと自体が幸運です。私の娘たちが死んだいとこたちをうらやみ、自分たちも死ぬことを願う姿は、私の心を痛めます。

 ここで水を手に入れるのはとても難しいことです。イスラエルの占領軍はほとんどの井戸を破壊してしまいました。救護機関が水を配っていますが、人々の必要を満たすにはとても足りません。だから高いお金を払って水を買ってくるしかありません。職場の給料でも負担を感じるほどです。

 先月、イスラエルと休戦しましたが、私はデイルアルバラを離れられずにいます。故郷に行けるようにはなりましたが、道路ががれきで塞がっていて行けません。私の故郷はもう木一本残っていない、人の住めない場所になってしまいました。それでも道が開通したら、故郷に帰って破壊された自宅の敷地にテントを張って暮らすつもりです。

イスラエルの空爆で破壊されたラニア・スルタンさんの自宅の跡と故郷の村=ラニア・スルタンさん提供//ハンギョレ新聞社

 犠牲になった親戚、死んでいった数多くの子どもたちは、近くであれ遠くであれ、ハマスとは何の関係もありませんでした。彼らは私たちと同じ、生きるために逃げ回っていた罪のない人々でした。

 パレスチナ人は、あなたと同じように暮らしを愛する人々です。恐怖と飢え、追い出されることを心配することなく、尊厳が守られる安全な場所で生きる権利を持つ人々です。世界のどこに住んでいる人々とも同じ、肉と血でできた人間です。私は死が怖い。私の子どもたちが死ぬことなく、尊厳ある人生を生きることを願います。

 韓国政府に求めます。イスラエルの占領に反対し、この恐ろしい虐殺の責任を問い、虐殺を中止するよう強く要求する実質的な措置を取ってください。

 韓国市民に訴えます。全世界が目撃している中で殺され、追放されている私たちパレスチナ人と連帯してください。あなた方の連帯こそ、この極めて厳しい状況に耐える希望を与えてくれるのです。

キム・ジフン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/arabafrica/1226942.html韓国語原文入力:2025-11-02 18:07
訳D.K

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