「(殺されそうになったことは)天災と思ってあきらめろ」
1923年10月末、関東大震災朝鮮人虐殺の時にかろうじて命が助かった慶尚南道居昌(コチャン)出身のシン・チャンボムさんを訪ねてきた朝鮮総督府の役人はこう言った。当時23歳だったシンさんは、その年の9月1日、東京の上野で昼食を食べている時に地震にあった。食糧の入手も難しかったシンさんは、東京に住む在日同胞の家に避難した。9月3日、人々が「津波が来る」と大声を張り上げた。彼は高い地帯にある東京の荒川堤防へ再び避難した。
大きな悲劇が待っていた。9月4日、日本人たちが「朝鮮人を捕まえろ」 「朝鮮人を殺せ」と大声を張り上げた。関東大震災の後に朝鮮人が「井戸に毒を撒いた」 「防火した」のような流言が広がり、軍警と、民間人で構成された「自警団」が朝鮮人を虐殺した時であった。日本刀と「トビクチ」(消防用の道具で長い棒に刃がついた道具)で武装した日本人たちが人波の中から朝鮮人を探し始めた。自警団は荒川堤防の工事現場で働いていた朝鮮人労働者イム・ソンイルさんに最初に近付いて日本語で何かを話しかけた。日本語が分からないイムさんは、日本語を話せたシンさんに「通訳してほしい」と叫んだ。叫びとほとんど同時に自警団が日本刀でイムさんを切りつけて殺害した。
彼はそこにいては殺されると考えて荒川に飛び込んだ。別の朝鮮人も飛び込んだ。銃声が聞こえ、泳いでいた朝鮮人が川の底に沈んだ。彼は弟と共に葦畑に身を隠したが、船に乗ってやってきた自警団に捕まった。自警団は彼に日本刀を打ち下ろした。彼は日本刀を左手で防いだ。左手の小指が切られた。日本刀を奪って抵抗したが効果がなかった。他の自警団員まで襲ってきて攻撃を防ぐことはできずに気絶した。左肩には日本刀で切られた大きな傷が残り、頭とからだのあちこちにも傷を負った。
日本人たちは朝鮮人の死骸を寺島警察署に運んだ。死骸は、魚市場で大きな魚を鉤で引っかけて運ぶように、トビクチで運ばれた。彼も寺島警察署に運ばれた。左足にはトビクチによる傷が残った。意識を失った彼を助けたのは、一緒に警察署に連れてこられた弟のフンボムさんだった。多少傷が軽かった弟は、魚を積み上げるように積み上げた死体の隙間から兄が「水をくれ」という声を聞いた。弟がくれた水を飲み一週間ほど持ちこたえた後に目を開いた。朝鮮総督府の役人が意識を取り戻した彼を訪ねてきて、病院に連れて行ってやると話した。彼は病院に運ばれたが、治療は「赤チン」と呼ばれる消毒薬を塗る程度であった。看護師は看護よりは朝鮮人の動きを監視することの方に気をつかっているようだった。彼が退院した時、同じ病室にいた16人のうち、生き残った人は9人だった。
この話は今月2日、東京墨田区の荒川堤防で市民団体「鳳仙花」が開いた関東大震災朝鮮人虐殺94周年追悼式で紹介されたシン・チャンボムさんの証言だ。1963年、日本の朝鮮大学校が収集し記録した証言を改めて紹介した。
この日、東京墨田区の荒川堤防そばの鳳仙花の花が咲いた朝鮮人虐殺追悼碑の前で、市民たちが献花をした。追悼式にはチャンボムさんの末の弟の孫であるチャンウさんが参加した。チャンウさんは「朝鮮人虐殺に対する隠蔽が続いている。総督府の役人が言った「天災と思ってあきらめろ」という言葉を聞いて、小池百合子東京都知事が最近した話を思い浮かべた」と話した。小池知事は今年から朝鮮人虐殺犠牲者に対する追悼文を送らなくした理由として「地震被害者全員に追悼文を送っているので、(朝鮮人を対象とする)特別な形での追悼文は控えた」と話した。