夏の日差しが降り注いでいた1日午前11時57分。千葉県船橋市の馬込霊園に童謡「故郷の春」が流れ始めると、150人以上の在日同胞が一斉に立ち上がり、長い黙祷を捧げた。93年前の1923年9月1日、関東大震災が発生した時間に合わせ、当時、無念にも虐殺された同胞の魂を慰めるための追悼慰霊祭が開かれた。
毎年9月初めになると、日本の関東地域では大震災以降、日本軍と自警団によって虐殺された朝鮮人の魂を慰めるための様々な行事が開かれる。しかし、ここ船橋の行事には大きな特徴がある。日本人が中心になって進められる他の行事とは異なり、在日本朝鮮人総連合会(総連)を中心とした同胞社会が主催していることだ。関東大震災に関する2本のドキュメンタリー映画を作った呉充功(オチュンゴン)監督(60)は、「解放直後に同胞たちが当時虐殺された犠牲者のために慰霊碑を作り、遺骨まで発掘して追悼行事を続けてきたのは、ここしかない」と話した。現在、馬込霊園に建てられた慰霊碑は、解放からわずか2年後の1947年の三一節を迎え、同胞たちが少しずつお金を集めて作ったものだ。
慰霊碑が現在の位置に移されることになった過程は、まるで一編のドラマのようだった。当初、この碑石は虐殺が行われた旧船橋火葬場近くにあったが、土地問題などで碑石を移転せざるを得ない状況になった。同胞たちは、石碑を移転する際、当時亡くなった人たちの遺骨を探し回っていたが、糸口をつかめずにいた。ところが、救いの手を差し伸べてくれたのは、ある日本人だった。彼の父親が「家の仏壇の下に、朝鮮人の遺骨を埋めた地図を隠しておいた。後に遺骨を探す人が来たら、場所を教えてやってくれ」という遺言を残したのだ。地図に記されていた地域(現在、船橋駅前の天沼弁天池公園)を掘り起こしてみると、遺骨が出てきた。以降、同胞たちは船橋市との交渉を通じて1962年に現在の位置に慰霊碑を移した。
この日の行事に出席したイ・ギソクさん(81)の父親イ・ジンホさん(1889~1956)は、当時、朝鮮人虐殺の現場を目撃した。慶尚南道密陽(ミリャン)出身の彼の父親は24歳の時、現在の東京月島付近で地震に遭った。地震直後、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れている」という流言飛語が広まったことで、軍・警察、自警団によって6000人を超える朝鮮人が虐殺されたと推定される。日本の警察は「朝鮮人の保護」を名目に多くの朝鮮人を当時日本陸軍騎兵連隊がいた千葉県習志野に集団収容した。
しかし、収容所ではまた別の虐殺が待っていた。軍が収容者の中から「不逞鮮人」を選んで直接殺害したり、周辺の村人に引き渡して虐殺を勧めたのだ。イさんは「殺害のうわさを聞いた父は収容所を逃げ出して命拾いした」と話した。
船橋の追悼式は1947年以来70年間続いている。 この日の行事に出席した日本側の代表堀山久氏(高校教師)は「日本では今日が防災の日と定められているが、多くの朝鮮人たちが虐殺されたことに対する言及はほとんどない。二度と同じ過ちを犯さないためにも、私たち日本人はこの歴史を葬り去ってはならない」と指摘した。千葉朝鮮初中級学校の中学3年生のパク・ユヒャンさん(15)は「今も続いている日本の民族差別に対し、堂々と戦っていく」と話した。
韓国語原文入力: 2016-09-01 16:14