登録 : 2015.11.27 00:00 修正 : 2015.11.27 06:26

16日、米国ジョージア州アーサンスのホテルでオスロ大とベルリン大で教授を務めたヨハン・カルトン教授(左)とジョージア大国際問題研究所所長のパク・ハンシク教授が、フランスのパリのテロと国際平和などについて対話している=イ・ヨンイン・ワシントン特派員//ハンギョレ新聞社

 分かっていない人々は「気は確かか」と非難した。1981年から、そして1991年以降は毎年北朝鮮に通って“平和設計者”として献身してきた彼に降り注いだのは賛辞ばかりではなかった。 ある者は彼を「従北」あるいは「親北」と罵倒し、またある者は「期待したより保守的」と評価した。 それでも彼は周辺の視線に惑わされず平和、特に「朝鮮半島の平和」という課題と取り組んで生涯唯一の道を歩んできた。

 パク・ハンシク・ジョージア大教授が12月4日、76歳で大学を引退する。彼は米国でベトナム戦争反対デモが真っ最中だった1970年にジョージア大の国際関係学教授に任用された。当時はまだ良く知られていなかった国、韓国の若い教授を採用したので学校としても破格の措置だった。 そして45年間、一つの大学に身を置き、50回以上も北朝鮮を訪問した。

 パク教授に初めて会ったのはチョン・ドンヨン統一部長官の時期だから、2005年の秋だったと思う。 そして、彼が訪北談を発表するセミナーに2回ほど参加した。 個人的にゆっくりと話を交わしたことはなかったが、今月16日のパク教授とヨハン・ガルトゥング教授の対談を取材するためジョージア大で彼と再会した。 そして、その後何度か電話での話が続いた。

 印象をざっくり言えば、彼は相手に対する配慮が実によく身についている。息子程度の年齢である記者に対しても尊敬語を使う。 成功した人に漂う傲慢さもない。 まるで田舎のおじいさんのように穏やかで甘えたくなる。 このような方向で記事を書いて欲しいと注文することもない。こちらから対談の核心テーマを「パリのテロ」にしようと提案したら快く受け入れてくれた。 相手の立場を先ず考えること、それが生涯“平和仲裁者”としての役割を果たせた資質ではないか、そんな思いが頭をかすめた。

 また、彼は実に楽天的だ。 北朝鮮と米国、または、韓国・北朝鮮と米国の専門家会議を設ける際に最も大きな困難は何だったかと尋ねると、「特別な困難はなかった」と答えた。 経費調達(ファンディング)は常に難しい宿題ではなかったかと重ねて尋ねると「ファンディングはいつも難しい。しかし良い着想に、一緒に仕事が出来る同僚や友人が韓国、米国、そして北朝鮮にいる限り、金がないために平和作りができなかったということはなかった」と言う。 彼は「方向が正しくて、他に私欲がなければ確実に成功する」と強調した。

 彼の役割は朝鮮半島情勢が悪化した時に一層光を放った。1994年の第1次北朝鮮核危機が起きた時、ジミー・カーター元大統領の平壌(ピョンヤン)訪問を斡旋し、朝鮮半島の戦争危機を防いだし、2003年11月にも北朝鮮の核危機解消のために北朝鮮と米国の民間専門家が参加した会議を開いた。それでも、彼は依然として解決できずにいる南北関係と北朝鮮と米国の関係について本当に残念だと話した。 南北関係や朝米関係があまりにも起伏が激しくて「情勢が悪い時に北朝鮮に行けば、仕事がうまくいかなくて本当にもどかしかった」と吐露した。

イ・ヨンイン ワシントン特派員 //ハンギョレ新聞社
 彼は学校からは引退するが、朝鮮半島平和運動まで引退するわけではない。 彼の頭の中にはすでに来年の計画が一杯詰まっている。 平和に関する講義も多くの大学で継続する予定だ。平和は“紛争解消”という消極的な概念ではなく“調和”であり、“調和とは異質なものとの対話”という彼の持論は、次世代の平和設計者の哲学的滋養になるだろう。

 しかし、彼が歩んできた道を継ごうという後輩学者が見当たらない。 敵対関係にある国々の全てから信頼を得なければならず、マスコミの華麗な照明を受けることもない。 それは辛い道なので、嘱望される後輩学者の背中を強く押すこともできない。

イ・ヨンイン ワシントン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-11-26 18:41
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/719220.html 訳J.S(1709字)

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