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「日本 自殺特攻隊遺書 ユネスコ遺産 推進」

登録:2014-02-05 00:17 修正:2014-09-05 17:40
南九州市の市長が明らかに
特攻隊員には朝鮮人も11人
遺書には "決死" 家族には "やむを得ず行く"
日本 鹿児島県 南九州市の知覧特攻平和公園に行けば、日本人だけでなく朝鮮人神風特攻隊員の遺書と写真も確認される。1945年3月に死亡したパク・ドンフンは創氏名のオオカワ・マサアキとして展示されている。 ‘ハンギョレ’資料写真

‘決死’と書かれた大きな漢字の脇に飛行服を着た痩せた顔の少年の写真が展示されている。 詳しく見れば、大きな字のそばに書かれた少年の住所を確認できる。 ‘朝鮮咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸州郡(ハムジュグン)興南府(フンナムブ)西好里(ソホリ)202番地’。 朝鮮人特攻隊員として17才で生涯を終えたパク・ドンフンの遺書だ。

 日本 鹿児島県 南九州市が太平洋戦争末期 日本陸軍最大の神風特攻基地である知覧基地に保管されている神風特攻隊員の遺書と手紙を‘ユネスコ記憶遺産’として登載を推進すると4日明らかにした。 南九州市の霜出勘平市長はこの日、市内の知覧特攻平和会館で記者会見を行い、「来年は戦争が終わって70年になるが(特攻隊員の)遺族たちがますます減っている。 そのためにも特攻隊員のメッセージを(世界に)広く知らしめ戦争の悲惨さと平和について考える契機にしたい」と話した。

 旧知覧基地の跡に建てられた知覧特攻平和会館には、特攻隊員の遺書と手紙など1万4000点余りの資料が保管・展示されている。 南九州市はこの内、特攻隊員のものであることが確認された遺書と手紙333点を英語に翻訳する作業を終えた後‘知覧からの手紙’というタイトルをつけ、来年4月を目標にユネスコ遺産申請作業を進める計画だ。

 しかし特攻隊員の遺書をユネスコ記憶遺産として登載することが望ましいか否かを巡って熱い論議が避けられない展望だ。 この間、日本では多くの人々が‘戦争の悲惨さ’を改めて悟るには、特攻隊員の死を記憶しなければならないと主張してきたが、結局国家のために個人の死を当然視する特攻作戦を美化する結果につながったという評価が多い。

 隊員たちが遺書に書いたように、天皇のために喜んで死ぬと決心したのかも疑問だ。 戦争時期、陸軍報道班員として知覧基地を取材した経験がある高木俊朗の<特攻基地芝蘭>(1973年)等を見れば、命が惜しく飛行機の故障を理由に帰還した隊員の事情が数え切れないほど多く登場し、彼らを一般人の目につかないように受け入れた施設があったという事実も明らかにされた。 パク・ドンフンも遺書には‘決死’と書いたが、「陸軍が家族の責任を負うと言うので、どうしようもなかった。 弟は絶対に軍隊に送るな」として、父親を抱いて泣いたというエピソードが家族の証言により確認された。

 知覧特攻平和会館が2004年に出した資料集<魂魄の記録>を見れば、知覧で特攻作戦に投入され亡くなった朝鮮人は11人と確認されている。 今回の申請が受け入れられれば、朝鮮人隊員の遺書も日本のために死んだ神風特攻隊の一部として記憶遺産に登載されることがありうる。

 最近、日本社会が全体的に右傾化する中で、太平洋戦争時期に日本海軍の特攻機であったゼロ戦と神風特攻隊に対する関心が急増している。 海軍特攻隊の事情を扱った百田尚樹の小説<永遠の0>が400万部を突破する大人気を得たのに続き、ゼロ戦と関連した展示会や各種書籍の販売が増加している。

 しかし、実際に戦争を経験した世代は特攻作戦に対して反省しなければならないという態度を維持している。 学徒兵出身である<読売新聞>の渡邉恒雄会長は、神風特攻隊に対して 「彼らが喜んで出陣したというのはみなウソだ。屠殺場に引きずられて行く羊たちのようによろめいていた」と話したことがある。 海軍で実際に特攻作戦を執行した平塚誠一 元少佐も2010年<NHK>放送インタビューで「軍隊では決死を覚悟する作戦だとしても、必ず生きて帰ってくる道がなければならない。 それがない特攻作戦は結局、生命軽視の風潮を産み日本海軍に大きな害悪を及ぼした」と反省したことがある。

 今までユネスコ記憶遺産に指定された記録物は、ナチ治下で凄惨な一生を送った少女の<アンネ・フランクの日記>等 300件に達する。日本では福岡県筑豊地域の凄惨な炭鉱生活を描いた作家 山本作兵衛の記録画など3件が指定されている。

東京/キル・ユンヒョン特派員 charisma@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/622598.html 韓国語原文入力:2014/02/04 21:38
訳J.S(1974字)

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