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キリング・フィールド…しかし誰が誰を断罪するのだろうか

[土曜版] ニュース分析 なぜ? カンボジア虐殺責任者の謝罪
カンボジアの歴史と特別法廷進行状況

▲過去は生き残った人々の口から復活し、生き残った人々は過去の実体を直視する時に癒される。1975~79年、クメール・ルージュが国民改造などを名目に約200万人を虐殺した「キリング・フィールド」に対して、クメール・ルージュのNo.2、ヌオン・チュアが「責任を痛感する」と遺族に謝った。87才のヌオン・チュアが約30年ぶりに責任を認めたカンボジア特別法廷は、どんな所なのか? 彼はなぜ「悔心」したのだろうか?

10年前 国連とカンボジア政府の
合意により設立された国際法廷
クメール・ルージュ虐殺責任を問い
正義を取り戻すという趣旨や
運営過程に論議絶えず

カンボジア首相フンセンも
クメール・ルージュ将校出身で
法廷に立たねばならない人物
米国はキリング・フィールドを非難しているが
クメール・ルージュに虐殺をけしかけたのは
1975年以前の米軍の大量爆撃

 2011年11月のある日、カンボジアの首都プノンペンの裁判所前には、明け方から傍聴券を得ようとする人々で長蛇の列が出来た。彼らが列んだ通りは、1975年4月17日、クメール・ルージュ軍を率いたポル・ポトが、ロン・ノル首相を追い出しプノンペンに入城した所だった。当時、プノンペン市民の中には陰で、後押しをしている米国だけを信じて腐敗が蔓延したロン・ノルが追放されることを喜んだ人々が多かった。 状況は変わった。この日、人々が見るのを願ったのは、36年前に意気揚揚としてこの道を行進した人々が法廷に立つ姿だった。この日はカンボジア特別法廷に、クメール・ルージュの中心要人であったヌオン・チュア、キュー・サンファン、イエン・サリが登場する日だった。

80代のヌオン・チュア、ようやく悔恨感じたか

 傍聴券を得ようと長い行列で、英国BBC記者は珍しい風景を目撃した。クメール・ルージュ期に虐殺に参加した加害者と被害者が一緒に裁判が開かれるのを待っていたのだ。家族8人を失ったというホン・フという人物の後には、政権の許可を得ずに恋愛したという理由で男女カップルを殺したチム・パンが座っていた。チム・パンは「もし政権の言う通りにしなかったとしたら、死ななければならなかった」と話し、ホン・フは「私はチム・パンのような人には怒りを感じない。本当に罰を受けなければならない人は、今日、法廷に立つ人々だ」と語った。

 この日の公判では、カンボジア検事であるチェア・レンが、虐殺者の蛮行を詳細に言い連ねた。1975~79年、プノンペン市民がいかに暴力的に田舎に追い出されたのか、処刑されたり飢えて死んだ人々の死骸が散乱していた市街地の風景は、どのようだったのか。クメール・ルージュ軍は、生きている人の内臓を引きずり出し、両親たちが死んだ子供たちの葬式も執り行えないようにした。飢えた人々は、死者の肉を切り出さなければならなかった。チェア・レンは「あたかもこの世の終末が近づいたようだった」とのある生存者の証言を伝えた。ポル・ポトの右腕として当時「ブラザーナンバー2」と呼ばれたヌオン・チュアは、黒いメガネの後ろに表情を隠していた。その傍には、国家主席を務めたキュー・サンファンが座っていた。当時外相だったイエン・サリは、背中が痛いと言って、特別室で監視カメラで裁判場面を見守った。

 それから1年6ヶ月が経った。2013年5月30日、「国益のために熱心に仕事をしただけ」と主張してきたヌオン・チュアがついに罪を告白した。彼は質疑者として裁判に出てきた、1970年代に両親を失った被害者に向かって「私は、私の心の奥底から責任を感じている」と話した。また、「私は当時、民主カンボジア(クメール・ルージュ)の一員として、指導者として、責任を避けるつもりはない。家族を失ったあなたに、心より哀悼の意を表わす」と述べた。ヌオン・チュアの後に続き、ポル・ポト政権で国家主席を務めたキュー・サンファンも弔意を表わした。

 もちろん、彼らの謝罪を十分だと評価することはできない。ヌオン・チュアは謝罪に続き、「私は虐殺を行った執行部署にはいなかった」と付け加えた。キュー・サンファンはやはり、「私は軍人たちが、それほどの虐殺を犯したのか、そこまでは知らなかった」と話した。しかし、彼らの発言は、初めて法廷で自身の責任を公式に認めたという意味がある。少なくとも公訴手続きに進むだろうと、専門家たちは期待している。

 カンボジア文書センターの所長であるユク・チャンは「恐らくヌオン・チュアは、自分が人生の最後のページをめくっていると考えたようだ。最期に悔恨を感じたように見える」と話した。若さがあふれた時期、無慈悲に銃刀を振り回した人々は、すでに80代を超えた。ヌオン・チュアより1歳年上のもう一人の中心戦犯、イエン・サリも傍を離れた。イエン・サリは88才で今年3月に亡くなった。イエン・サリの死は、ヌオン・チュアに「人生無常」を悟らせたのかも知れない。

001号はトゥールスレン刑務所責任者 ドッチ

 カンボジア特別法廷は、2003年6月、国連とカンボジア政府の合意により設立された国際法廷だ。クメール・ルージュ占領期に行われた虐殺と拷問、追放を主導した中心戦犯たちに法的責任を問い、犠牲者に正義を取り戻すという趣旨で作られた。「毛沢東主義者」のポル・ポトが率いた共産ゲリラ軍であるクメール・ルージュ(赤いクメールという意味)は、1975年4月からベトナム軍の侵攻でタイへ追われた1979年1月まで、カンボジア全域を恐怖に追い込んだ。市場はもちろん貨幣もない急進的社会主義、「知識分子」を処刑する極端な民衆主義、イデオロギー的硬直性は、無分別な暴力を正当化させ、当時のカンボジア国民約800万人中4分の1を殺す「カンボジア版ホロコースト」が繰り広げられた。血で染まったカンボジアの原野は、映画の題名のように「キリングフィールド」であった。

 カンボジア政府が特別法廷に合意したのは、過去の「キリングフィールド」のイメージから脱して国際社会での地位を確立し、歴史的正統性を主張するための試みと見ることができる。特別法廷を喜ぶ米国・フランスなどの西側国家は、植民地化、爆撃など、自分たちがカンボジアで行った暴力の責任をこっそり取り下げ、「クメール・ルージュ」にすべての悲劇の責任を転嫁する効果も狙ったのだろう。

 1991年、国連の仲裁でベトナムとの戦争を終わらせたカンボジア政府は、1997年、当時国連事務総長だったコフィ・アナンに、クメール・ルージュ戦犯裁判のための手続きを共同で進めようと、書簡を送った。以後、過程は険しかった。カンボジア政府が法廷設立・運営費用を負担することにしたが、カンボジアの財政状態がこれを許さなかった。カナダ、インド、日本など他の国々が後援した。いよいよ2006年、カンボジアをはじめとして、ポーランド・スリランカ・ドイツ・フランスなど外国の法律家30人が、判事に任命された。この法廷はカンボジア国内で裁判を遂行するが、国際判事と国内判事が共に仕事をして、カンボジア国内法だけでなく国際法・国際規約も適用する国際法廷だ。

 特別法廷に一番最初に立ったのは、トゥールスレン刑務所(S-21)の責任者であったドッチ(実名カン・ケク・イウ)であった。約1万人が亡くなったトゥールスレン刑務所で行われた「人間狩り」は、クメール・ルージュの蛮行の中でも最も悪辣な行為に選ばれる。特別法廷はこの事件を001号と命名して調査し、ドッチは2007年起訴され、2012年終身刑を宣告された。その後に続いて、事件002号でヌオン・チュア、キュー・サンファン、イエン・サリと彼の夫人イエン・シリトが起訴された。ポル・ポトは1998年にすでに死亡したので、責任を問うことができなかった。シリトは痴呆にかかり陳述が困難だとして、裁判が中止された。結局、現時点で罪をより分ける作業が残っている戦犯は、ヌオン・チュアとキュー・サンファンの二人だ。

捜査検事と捜査判事と対立と反目

 カンボジア特別法廷は、十分に名目のある機構だが、運営過程で論議が絶えなかった。何よりカンボジア政府に責任がある。独立的に運営されなければならない特別法廷に圧力を加えているという批判だ。カンボジア国民は70%ほどが、クメール・ルージュを断罪する特別法廷運営に肯定的だったが、政府の内心は違う。現在のカンボジアのフン・セン首相はクメール・ルージュ将校出身で、厳密に言えば、彼もやはり法廷に立たなければならない人物だ。

 カンボジア政府の積極的な介入は、2010年からあらわれ始めた。フン・セン首相はプノンペンを訪問した潘基文(パン・ギムン)国連事務総長に、事件002号で裁判を終えて法廷を閉じようと話した。すでに捜査に入った003号は、トゥールスレン刑務所で収監者の逮捕と移送を担当したクメール・ルージュ軍人に関連した事件だった。それ以後、「事件003号」として裁判を続けなければならないとする国連とカンボジア政府の対立は、複雑な国際法廷システムの中で複雑に絡み合った。

 まず、判事任命権に関する神経戦が代表的だ。カンボジア特別法廷の国際刑事判事の任用手続きは、二段階を経なければならない。国連が指名してカンボジア最高司法委員会(SCM)が追認する。カンボジア政府は2011年1月、追加裁判を要求するロラン・カスフォアンセルメ予備捜査判事を正式な捜査判事に任命できないと通知して、国連と対立した。

 かつてフランスの植民地であったカンボジアがフランス法体系を受け継ぎ、検事以外にも判事が起訴前の捜査を担当するようになっていることも状況を複雑にさせている。2011年6月には共同捜査検事であるアンドリュー・ケイリーと捜査判事であるジークフリート・ブルンク判事が対立した。ケイリーは声明を出して「共同捜査判事が事件003号を早期終結しようとしている」と非難し、ブルンクはケイリーを法廷冒涜罪で告発すると怒った。

 費用投入に比べて生産性が劣るとの批判も多い。これまで、特別法廷には1億5000万ドルが投入されたが、今までに刑が確定されたのはドッチ一人に過ぎない。豪華な法廷だが非効率的という話だ。このために日本・ドイツ・フランス・米国・英国などでは、特別法廷がより透明で独立的に運営されるまでは財政支援をしてはならないという声も出て来ている。犠牲者の証言が無視される場合も多い。ある被害者は、裁判に証人として参加しようと申請したが、判事は精神的問題があり事実である可能性が低いとして却下した。また、「直接的被害者」に限り裁判に参加させるということも、制限的かつ恣意的な判断との指摘が出ている。

 一方では、カンボジア特別法廷は、始めから根本的な限界を抱えているという話も出ている。国際紛争専門記者であるチョン・ムンテ氏は、1970年代のカンボジアでの民間人虐殺をきちんと糾明するには、1975年以前の米軍による無慈悲な爆撃で犠牲となった人々に対する調査にまで拡大しなければなければならないと主張する。米国は、カンボジアに拠点を置いているベトナム共産主義者をせん滅しなければならないとして、1969年から数年間、カンボジアに各種爆弾を投下した。チョン氏は「秘密爆撃を主導した当時のヘンリー・キッシンジャー ホワイトハウス安保顧問も法廷に立つべき」と主張する。クメール・ルージュ占領期、多くの人々が飢えて死んだが、これは米国の爆撃で農地が不毛化したことも大きい。

 クメール・ルージュの教訓を法律だけで得ることはできないだろう。これまで、カンボジアの活動家は、教科書にクメール・ルージュ政権期に起きたことを載せなければならないと主張しており、ある程度の成果を得た。ユク・チャン カンボジア文書センター所長は、アルジャジーラとのインタビューで「歴史をきちんと教えるのは、カンボジアで国民を、最もよく治癒する手段の一つ」と話した。2007年からカンボジアの教科書に登場したクメール・ルージュの蛮行について、今では9~12学年の生徒たち約100万人が習っている。クメール・ルージュを扱った章はこのような文章で始まる。「新しい世代のために、空白として残っていた時期を叙述するということは、生存者の痛みと傷に再び触れる危険をはらんでいる。(…)しかし、私たちが過去を直視して、どんなことが、なぜ起きたのかを知らないならば、私たちは私たち自らをはじめとして、他人と和解するのが難しく、前進できないだろう。歴史を理解することによって、私たちは真に癒されることができる」

イユ・チュヒョン記者 edigna@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/international/asiapacific/590929.html 韓国語原文入力:2013.06.08 09:30
訳M.S(5390字)