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「財閥家の長男」チェ・テウォンの離婚…SKと盧泰愚一家の複雑な歴史(1)

登録:2024-06-01 02:21 修正:2024-06-01 06:59
2003年9月22日午後、保釈されたSKのチェ・テウォン会長が妻のノ・ソヨンさんと共に車でソウル拘置所から出てきている/聯合ニュース

<2024年5月31日、SKグループのチェ・テウォン会長(63)と「アートセンター・ナビ」のノ・ソヨン館長(61)との離婚訴訟の二審で、ノ館長に対する1兆3800億ウォン(約1570億円)の財産分与をチェ会長に命じる判決が出ました。2022年12月の一審で命じられた慰謝料の1億ウォンと財産分与665億ウォンの20倍以上です。財産分与の規模は、これまでに知られている中で過去最大です。

 すでに裁判所はチェ会長、ノ館長夫妻に対し、2022年12月6日に離婚を認める判決を下しています。韓国を代表する財閥である鮮京(ソンギョン)グループ(現SKグループ)一族の長男であるチェ会長と、「政治権力」である盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の娘であるノ館長は、1988年に大統領府の迎賓館で華やかな結婚式をあげました。金権と政権が出会った財閥の「政経癒着」の歴史の代表例にも数えられます。「財閥家の長男」の複雑な歴史を扱った「ハンギョレ21」第1094号の記事「盧泰愚-チェ・テウォンの複雑な27年」を再掲載します。_編集者注>

 「盧泰愚大統領が婿を迎えた。鮮京グループのチェ・ジョンヒョン会長の長男、テウォン君(29)と盧大統領の娘、ソヨンさん(28)は13日午前、大統領府迎賓館で両家の知人が参列する中、イ・ヒョンジェ首相の媒酌で結婚式をあげた。新郎と新婦はいずれも米シカゴ大学で博士課程を履修しているが、結婚後も米国で引き続き修学する予定だ。(中略)新郎と新婦はシカゴ大留学中に交際を開始。今月2日に婚約していた」

■歴代大統領は財閥の姻戚がお好き

 SKグループ(旧鮮京グループ)の故チェ・ジョンヒョン会長と盧泰愚元大統領の一家が姻戚の縁を結んだ1988年9月13日に報道された記事の一部だ。SKグループのチェ・テウォン会長と「アートセンター・ナビ」のノ・ソヨン館長が出会ったという米国シカゴ大学は、チェ・テウォン会長の父親である故チェ・ジョンヒョン会長が1959年に経済学の修士学位を取得したところでもある。故チェ・ジョンヒョン会長は当時、数少なかった韓国人留学生で(修書院、2001)、息子は父親を継ごうとしていた。

 シカゴ大学での縁が本当の運命的な愛だったのか、それとも政略結婚をもっともらしく飾り立てた必然だったのかは分からない。ドラマのような出会いは、2016年にはドロドロとした昼ドラのように終わる危機に陥った。チェ・テウォン会長は2015年12月29日の世界日報で報道された手紙で、ノ・ソヨン館長と離婚する意向を明らかにしつつ、6歳の婚外子がいることを告白した。一方、ノ館長は離婚する意思のないことを明確にしたという。

SKのチェ・テウォン会長(左)と「アートセンター・ナビ」のノ・ソヨン館長(右)/聯合ニュース

 この一編の昼ドラにおいて、本当に知りたいことは別にある。チェ・テウォン会長のラブストーリーはあくまでも個人史だ。しかしチェ・テウォン、ノ・ソヨン夫妻でつながった両家が韓国の政治経済史に残した足跡は、個人史の領域を越えている。

 SKグループは、石油、移動通信分野へと事業を拡張した1980~90年代には、大統領の姻戚企業だとの理由で常に「特恵」疑惑がついて回った。チェ・テウォン会長は、義父である盧泰愚元大統領の秘密資金事件にかかわったというレッテルを貼られて生きていた。その特恵とレッテルの実体が正確にはどのようなものなのかは、依然としてベールに包まれている。

 大韓民国の財閥の歴史は政経癒着の歴史だ。財閥は1970~90年代の政権に資金をささげる代価として、各種の特恵を得ながら急成長してきた。政経癒着は必ずしも金である必要はなかった。時には子どもたちの結婚でそれは実現した。

 歴代の大統領をみるだけでもそうだ。全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領は東亜ワングループ、そしてポスコの故パク・テジュン名誉会長一家と姻戚関係を結んだ。李明博(イ・ミョンバク)元大統領は娘を韓国タイヤ一家に嫁がせた。盧泰愚元大統領はSKグループだけでなく、新東邦グループ(当時は東邦油糧)とも姻戚関係を結んだ。ノ・ソヨン館長の弟であるジェホン氏は、1990年に新東邦グループのシン・ミョンス元会長の一人娘と結婚し、2013年に離婚している。

 離婚は両家の間の「取り引き」と愛憎関係をあらわにする契機となった。2012年に盧泰愚元大統領は「秘密資金として預けた金を任意に使った」として、姻戚だったシン・ミョンス元会長を告発する陳情書を検察に提出した。1995年の大統領秘密資金の捜査後、シン元会長は盧元大統領から預かった230億ウォンの秘密資金を国に返却するよう命じられている。だが、実は秘密資金は654億ウォンにのぼった、というのが盧元大統領側の主張だった。

 姻戚同士の訴訟で秘密資金の実体が一部明らかになったように、チェ・テウォン、ノ・ソヨン夫妻の離婚攻防においても、もう1枚の「ベール」がはがされることになるのだろうか。

■SKグループの石油、移動通信事業への拡大は特恵?

 SKグループは、1953年にチェ・テウォン会長の伯父に当たるチェ・ジョンゴン元会長が起業した鮮京織物会社が母体だ。繊維会社だったSKグループは、2度にわたって決定的な飛躍を遂げた。

 第1の飛躍は、公企業だった大韓石油公社(油公)の1980年11月の買収だった。繊維会社が精密化学会社へと、精油会社がエネルギー・化学企業へと生まれ変わったのだ。SKグループは石油開発事業にも手を広げた。油公の買収により、「石油から繊維まで」という故チェ・ジョンヒョン会長の夢と系列会社の垂直系列化が完成した。

 当時の油公の売上高は鮮京の10倍を超えていた。鮮京グループによる買収が決定された際に、「エビがクジラを食べた」、「カエルが大蛇を飲み込んだ」と評された理由はここにある。鮮京は、1970年代末までは財界売上高ベスト10の圏外だったが、油公買収後は財界5位圏へと躍進。2015年には、公正取引委員会が発表した売上高で、SKグループは財界2位となっている。

 だが、油公の買収過程にも盧泰愚元大統領がかかわっていたという複数の証言が存在する。チェ・ドンギュ元動力資源部長官は自身のエッセイ集で、「あの時、油公を鮮京に渡した人物は、保安司令官だった盧泰愚」だったとの全斗煥元大統領の回顧を語っている。チェ・テウォン、ノ・ソヨン夫妻の結婚式を半月あまり後に控えた1988年8月30日付のハンギョレ新聞2面には、「鮮京に油公の『買収条件』変更特恵」という見出しの記事が載っている。

 盧泰愚元大統領が新軍部の保安司令官だった時代に、彼の秘書室長だったアン・ビョンホ元首都防衛司令官は、2010年3月の「月刊朝鮮」のインタビューで、油公はそもそもサムスンのものとなるはずだったが、最後の最後で鮮京グループに変更されたと語っている。彼は、1980年8月に全斗煥国家保衛立法会議常任委員長(国軍保安司令官)、盧泰愚首都警備司令官らが出席する会議で、自らが話したことを紹介している。「サムスンが油公を所有してはいけないと思います。鮮京はサウジで、サムスンはメキシコで油を得る予定だそうです。チェ・ジュンヒョン氏(SKグループのチェ・テウォン会長の父親)の話によると、サウジは我々に安定的に油を供給することを約束したそうです」。これを聞いて全斗煥常任委員長は、「アン・ビョンホの言っていることは正しい。長官を呼んで鮮京にやれと言え」と指示したというのだ。

 第2の飛躍は移動通信事業だ。盧泰愚大統領は1992年、韓国移動通信の民営化の事前段階として、第2移動通信事業者を選ぶことにした。鮮京グループ、浦項製鉄、コーロンの3社の激しい受注戦の末、鮮京グループが事業者に選ばれたが、姻戚企業に対する「特恵」だとの批判が強まったため、鮮京グループはわずか1週間で「放棄」を宣言した。

 だが、災い転じて福となった。大統領交代後の1994年、SKグループは民営化された韓国移動通信の株を買収。1999年には新世紀通信を買収し、国内第1位の移動通信事業者となった。SKテレコムは今も市場シェア50%前後のトップ事業者だ。

 チェ・テウォン会長とSKグループは、本当に姻戚の盧泰愚元大統領の「後光」効果を享受したのだろうか。鮮京グループは1989年から本格的に移動電話事業を推進しており、1990年には鮮京情報システム(株)を設立している。「カラスが飛び立った時に梨が落ちる(たまたま同時に起きたことで疑われる)」かもしれないが、チェ・テウォン、ノ・ソヨン夫妻の結婚後のことだ。

 政府は1990年6月、移動通信競争体制の導入方針を確定した。現職大統領の婿だったチェ・テウォン会長は、1991年に総合貿易商社の(株)鮮京に入社しているが、情報通信部門で業務を学びつつ、1992~94年の移動通信事業権受注競争で中心的な役割を果たしたことが知られている。

 特に1992年の第2移動通信事業者の選定過程では、鮮京グループには多くのうわさがついて回った。審査を担当していた逓信部が突如として事業者選定基準を変更したり、主観的な評価配点で鮮京グループに高い点数を与えたりなど、さまざまな情況が特恵疑惑を後押しした。次期大統領候補に決まっていた民自党の金泳三(キム・ヨンサム)代表が、事業者選定を大統領選挙後に先送りしようと主張するほどだった。第2移動通信事業者の選定後はチェ・テウォン会長が大韓テレコム代表に就任するといううわさも流れた。

 しかしSKは、盧泰愚政権の発足前から通信業を準備してきたことを明らかにしている。1984年に米州経営企画室内にテレコミュニケーションチームを新設し、その後、長きにわたって情報通信事業を準備してきたことが、1992年の第2移動通信事業者の選定過程で圧倒的な点数差で1位になれた背景だ、との説明だ。(2に続く)

ファン・イェラン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://h21.hani.co.kr/arti/economy/economy_general/52993.html韓国語原文入力:2022-12-08 01:46
訳D.K

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