[金東椿(キム・ドンチュン)の暴力の世紀vs正義の未来] 警察と内通した暴力ガードマンは軍事政権・解放空間でうんざりするほど見てきたこと
‘共産党’から‘従北’ひっ捕まえに変わったが、変わりないのは腹がへった青年たち(4970字)
←30日午後、京畿道(キョンギド)安山(アンサン)、半月工業団地の自動車部品業者SJMの正門を外注警備業者職員が守っている。 安山/リュ・ウジョン記者 wjryu@hani.co.kr
2012年7月27日未明、京畿道(キョンギド)安山(アンサン)の自動車部品会社SJMにコンテクタスという外注警備会社職員が投入され、座り込み中の労働者に無差別的暴力を行使した。 外注警備職員300人が消火器や作業場内の鉄の塊などを投げ、労組員150人余りを工場外に追い出した。 労組員が警察に‘人がケガした’ ‘助けてくれ’ ‘119を呼んでくれ’と大声を張り上げたが警察は聞く素振りもせず、「ケガ人が血を流して病院に搬送されるのを見ても警察は微動だにしなかった」と言う。 会社との協議の下に行使された外注警備職員の暴力は、国家機関が自身の味方という確信なしには起こりえない行動だった。 この暴力を行使したコンテクタスのある理事は「従北勢力をひっ捕まえるという使命感でこの仕事をしている」と話す。 コンテクタスなど警備会社は今回のSJMだけでなくサンシンブレーキ・柳成企業・KECなど労使紛糾が起きた多くの事業場で残忍な暴力行使で悪名を駆せている。
"こいつに食わせろ、あいつに食わせろ" チンピラに指示
今回のように世間の非難が強まれば警察がこれら外注警備業者を押収捜索するなど処罰するフリをして、直ちに許可を取り消したりもする。 しかし彼らは役員を変えて新たに登録を申請すれば再び許可を受けて活動する。 政界の保護なしには可能でないという指摘もそのために出てくる。 コンテクタス ホームページには自分たちが李明博大統領を警護し、法務法人ヨンポが法律諮問を務めていると出ている。 彼らの投入を要請する会社、警察、そして外注警備会社間の癒着の疑いもある。 暴力事件の前後に会社社長が警察と‘ディールを行う’と言う。 何人は拘束、何人は罰金刑にという形にあらかじめ予定を決めておき現場に入るということだ。 そして外注警備業者の許可取消可能性を考慮して数億ウォン台の裏面契約を結ぶという。
ストライキ現場に暴力団が乱入して組合員に無差別暴力を行使し、警察は見て見ないフリをして、結局誰も責任を負わないでうやむやになるこの場面は軍事政権時期に私たちがうんざりするほど見てきたことではないか? 1978年2月21日、東一紡織労組定期総会のための代議員選出日のことだ。 労組員が投票しに出てきたとき、ゴム手袋をはめた暴漢が現れて糞尿の入ったバケツを持ってきて組合幹部の頭にかぶせ、口に詰め込み突っ込み、ぞうきんで顔に塗りたくったが、会社側の御用支部長立候補者はチンピラどもに 「こいつに食わせろ、あいつに食わせろ」と指示したかと思えば、労組員が助けてほしいと叫ぶと治安維持のために動員された制服警官は「オイ、このアマ、静かにしろ」と悪口を浴びせた。 キム・スファン枢機卿は数日後にスピーチで「治安維持のために出てきた警察がこのような蛮行を見て傍観していたとすれば、とうてい容認されないことです。 本当に嘆かわしいことです」と嘆きもした。 しかし警察は暴力事態を傍観した警察官らを立件せず、逆に同年3月26日に復活節連合礼拝で壇上に上がってくやしさを訴えた女工6人を現場で逮捕・拘束した。
全体主義・独裁国家は公式警察や軍人など治安要員だけでなく非公式治安要員であり準軍事組織、すなわち暴力団によって支えられる。 彼らは権力者に反対する勢力やストライキ労働者に暴力と虐殺を行うが、警察や軍隊などの公式組織よりはるかに残忍だ。 ボスニア事態当時、セルビアの民兵隊であるアルカンタイガー、ルワンダのインテラハムウェ、スーダンのジャンジャウィード、スペイン内戦期のファランヘなどは悪名高い私設テロ組織だった。 警察など公式治安組織が機能できなかったり、大資本や極右勢力が公権力だけでは自身の利益を守れないと考えた時に私的にテロ勢力を雇用する。 しかし事実、前近代時期から現在の新自由主義時代まで各国では私設警備業者、すなわち資本が雇用した私設暴力組織が政府の治安機能を補完・代行してきた。 南アフリカ共和国の場合、私設保安組織の規模が警察の4倍にもなり、世界的にも1990年代以後に民間保安産業が毎年20%以上成長したという。
全面ストライキに動員された‘将軍の息子’の部下たち
韓国ではまだ国家機関が自らの役割を果たせなかった解放政局がその全盛期であり、新自由主義時代、特に李明博政府以後に私設暴力組織が一層大手を振って歩いている。
1946年初、左翼の勢力が強かった京城電気株式会社(京電)労組員が全面ストライキに突入した。 ストライキが一週間を過ぎるとチョ・ビョンオク警務部長とチャン・テクサン首都庁長が右翼行動隊長であるキム・ドゥハンにひそかに会って応援を要請した。 警察は拘束された組合員を釈放し、キム・ドゥハンの部下は釈放された労組員を逮捕し南山(ナムサン)の‘キム・ドゥハン地下室’に連行し拷問・暴行を加えた後、電車の鍵をを捜し出し、電車を稼動させてストライキを鎮圧した。 その頃、ソウル、永登浦(ヨンドンポ)の泰昌紡織でストライキが発生するとキム・ドゥハンの部下が女工に性暴行したりもしたし、こん棒部隊500人はストライキ労働者をめった打ちにした。 左翼系の朝鮮労働組合全国評議会(全評)がストライキを主導したが、1946年3月10日李承晩系列の右派労働組合団体である大韓労総がこれに対抗して建設された以後、大韓労総は大韓民主青年同盟・西北青年団などの右翼団体とともに警察の支援を受けてストライキ阻止に乗り出した。
解放後、西北青年会(後に西北青年団)は韓国の右翼テロ組織の代名詞であった。 解放後、北韓の共産化過程で大量の青年たちが南へ下ってきた。 彼らは北側での親日清算と土地改革で経済・社会的地位を喪失し、社会主義政策に対する反発から38度線を越えたケースが大部分だった。 彼らは南側で何の縁故も親戚もなく、したがって職場も探せなかった。 失業状態の青年たちに‘左翼ひっ捕まえ’というもっともらしい名分を与えて、食べて寝れる所を提供する根拠地がまさに西北青年会であった。
西北青年会の傘下には大同江(テドンガン)同志会など、いくつかの同志会があったが、これらは左翼打倒の主要行動隊員の役割を担った。 以北出身者の中でソウルの暴力界を牛耳った青年たちがこの同志会の主要メンバーであった。 当時この組織の副会長をしていたムン・ポンジェは「血なまぐさい殺傷、それが西青の歴史と言っても過言ではない」と話すほどであった。 西北青年団は立法・司法・行政の3権の上に君臨した特権部隊だったという指摘があるほどに彼らの威勢はすさまじかった。 金九の暗殺犯、安斗煕もこの組織の幹部であった。 安斗煕は西北青年団総務部長時期に米国中央情報局(CIA)の前身である戦略情報局(OSS)韓国支部に抱き込まれ、金九暗殺当時この機関と関係を結んでいた。
西北青年団の大活躍
左翼系列労働者のストライキにはいつも警察の保護・支援の下に彼らが出動しストライキ労働者を無差別殴打して現場を血の海にし、ストライキを鎮圧する功労をたてた。 しかし彼らの最大の役割は、1948年5・10選挙と済州(チェジュ)4・3事件鎮圧過程で発揮された。 米国の韓国現代史研究者であるジョン メリルは次のように指摘した。 「彼ら(西北青年)が与えられた特別な任務はすべての住民を訪問して彼らが選挙に反対しているかどうかを確認し、彼らをして投票場に出て来させることだった。 こん棒と野球バットを持って横行していたこれらチンピラは、罪のない人民を残忍に殴り倒し、選挙に参加しなければ監獄に入れると脅迫しながら徘徊した」、「800人余りの西北青年団が警察を支援するために4・3蜂起直後に済州の部落の要所要所に投入された。 この増強された兵力は‘アカい島’に定着する代価として金を受け取った。 西北青年団員は少なくとも道理的には自身の役割を治安隊としての役割に限定しなければならないという線さえ無視して活動したし、北側にあった自身の故郷から追い出されたことに対する復讐心に燃え上がり南労党に対抗する闘争の手段としてテロ行為を採択して無慈悲に行った。 済州島は極端な二つの集団に分けられて金品恐喝、それと類似の犯罪行為が大手を振るい彼らの不正はむしろ当局によって保護されるのが実情だった。」
彼らの相当数は韓国戦争直前に警察・軍の公式組織に編入されたが、軍組織内で彼らの威勢は公式組織をも圧倒した。 陸軍士官学校5期の3分の2が西北青年団出身だった。 砲兵大隊で西北青年団出身兵士たちは新参将校を殴打したりもし、他の兵士たちを私兵としてこき使った。 兵士たちは後難が恐ろしくて将校の話より西北青年団の話をよく聞いたりもした。
西北青年団の背後にはチョ・ビョンオク警務部長とチャン・テクサン首都庁長が率いる軍政警察があり、李承晩は彼らの政治的後援者であった。 チョ・ビョンオクとチャン・テクサンは金銭的に彼らのテロ行為を支援した。 左翼掃討に成果が大きかった時、チョ・ビョンオクとチャン・テクサンは右翼青年たちの合宿所にひそかに訪ねて行き祝宴を整えもした。 米軍政のホッジ(John R. Hodge)中将が無差別的テロで問題になったこの組織を解散させろと話したが、チョ・ビョンオクは西北青年団の行動に多少の不法性があったとしても熱烈な反共右翼団体を解散することは米軍政の本来任務と使命に外れることだと話し西北青年団の肩を持った。 結局、米軍政と西北青年団は協力関係を結ぶことになった。
解放直後の右翼テロ組織は反共主義という理念により動いたように見えるが、実際の個人たちの参加動機はまさに空腹の解決だった。 結局、彼らは飯のために反共前衛の役割をした形だった。 企業家と伝統的特権層、平安道(ピョンアンド)出身有志が西北青年団を財政的に後援した。 そして当時政府であった米軍政は食糧配給をし、警察に進出する道を開いてやった。 彼らは時には富豪の金品を恐喝したり後援支援金を出さないという理由で殴打や銃撃を加えもした。 このように見ればかつての右翼テロ組織も今日のストライキ現場に投入されて座り込み労働者に暴力を振るう外注警備職員も、行動の動機はほとんど同一だ。 次の学期の授業料を用意するために上述した外注警備業者に入ってきたというある大学生は 「緊急状況に置かれている時、生きるためにこん棒を振り回す」と話し、この仕事をすることが疚しくないとは思わないが 「これをしなければ他にできる仕事がない」と自身の境遇を吐露している。
"これをしなければ他にできる仕事がない"
解放政局の右翼テロ勢力は生きるために自身と似た境遇の労働者に暴力を加え、李承晩や極右勢力は彼らを政治的に利用した。 今日の青年失業者も生きるために危険を覚悟で高所得‘業務’に乗り出しているが、彼らが物理的衝突過程で負傷を負っても政府と会社は彼らを見捨てるだろう。
過去も現在も右翼テロの名分は同一だ。 かつての‘共産党ひっ捕まえ’が今日の‘従北ひっ捕まえ’に変わっただけだ。 右翼テロ勢力が今日では合法的に設置された会社の職員だという点が過去と変わった点であろうか?
私設テロ組織が公権力の代わりをする国で、国家とはいったい何だろうか?
聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授
原文: http://h21.hani.co.kr/arti/COLUMN/152/32766.html 訳J.S