本文に移動

[ハンギョレ21 2012.06.11第914号]ソウル市庁の向い側に‘屏風建物’を建てた理由

[チョン・ウヨンのソウル踏査](2979字)

韓国戦争当時‘中共軍’介入で生存のために反共を強要された在韓華僑
市庁から小公洞(ソゴンドン)華僑集団居住地へ向かう視線を遮断するためにプラザホテルを建てる

←ソウル市庁の向い側に華僑会館が建つ予定だった場所に高く聳え立つ2幅の屏風形のプラザホテルとその後のハンファビルディングが見える。 プラザホテルの主な機能の一つは、ソウル市庁から小公洞(ソゴンドン)華僑集団居住地へ向かう視線を遮断することだった。 この都市計画的企画は概して成功したが、このホテルの後方で在韓華僑が体験した悲運の歴史を読む人は殆どいない。 チョン・ウヨン提供

 8月15日は東アジア3国でそれぞれ別の名前で呼ばれる記念日だ。 韓国では光復節、日本では終戦記念日、中国では一時は抗日戦争勝利記念日だった(現在は中華人民共和国と‘中華民国’共に日本代表が降伏文書に署名した翌日である9月3日を抗日戦争勝利記念日としている)。1945年8月15日、在韓華僑も日本帝国の敵国民の境遇から抜け出した。 彼らの母国は韓国人に‘解放’を抱かせた戦勝国だった。 それでも彼らに対する韓国人の視線が変わってはいない。 話の上では‘米・英・中・ソ’ 4大戦勝国と言ったが、韓国人は中国と中国人には些かも感謝しなかった。

韓国軍に志願入隊して戦死した華僑

 ただし韓国の経済関係が変わり、在韓華僑の位置はその新しい関係を活用する上でとても有利だった。 ほとんど全面的に日本に依存してきた韓国経済は日本の資本と技術、人材が撤退するやすぐに壊滅状態に陥った。 輸出入ではなく移出入と呼ばれた対日貿易も事実上中断された。 代わりに中国・香港・マカオが新たな交易候補地として急浮上した。 中国商人がその貿易の主導権を握った。 解放直後しばらく中国商人は韓国貿易額の半分以上を取り扱った。 しかし大韓民国政府が樹立され中国共産党が本土を掌握した後に事情は再び変わった。

 在韓華僑の98%以上の故郷である山東省が中華人民共和国の治下に入った。‘故郷’を選んだ人々もいたし、‘生活’を選んだ人々もいた。 国民党政府が台湾に後退する時、彼らについて行かずに縁故を訪ねて韓国へ渡ってきた中国人もいた。 当時の‘理念’は生活に付属した実体にならざるをえなかった。在韓華僑も韓国人らと共に‘離散の痛み’と‘理念戦争’を体験した。 特に韓国戦争で‘中共軍’が介入すると在韓華僑は自身の理念的座標を積極的に表さなければならない状況に追いやられた。 戦争中、そして休戦後の10年をはるかに越えて‘打ち破れ、オタンケ何百万か’で始まる軍歌<勝利の歌>は大衆的な‘国民歌謡’の一つであった。 1970年代初期までしても女の子がゴムひも遊びをしながら必ず歌う歌であった。在韓華僑は自身が‘オランケの一員だが普通のオランケとは別の存在’という事実を立証しなければならなかった。 彼らにとっては蒋介石の国民党政府を絶対支持する‘反共自由陣営の一員’という標識が生存のための必需品だった。

 戦争中、一部の華僑青年が韓国軍に志願入隊し、彼らの中から戦死傷者も出てきた。 しかし韓国政府は彼らの功績を認めるのに‘特別に’吝嗇だった。 彼らは韓国軍で死んだり負傷しても、韓国人ではないという理由で国家援護対象から排除された。 彼らは韓国の‘護国英霊’にはなれなかった。 韓国軍で死んだ人々さえ冷遇を受けたので、生きた人間は言うまでもなかった。 中国人に対する差別観念は韓国人の意識の深いところにすでに根をおろした状態であった。 しかも李承晩と朴正熙の中国人嫌悪は並の韓国人より一層深刻だったという。 韓国政府は在日同胞に1年に1回ずつ‘指紋’をとらせているとして日本政府を非難しながらも、実際、在韓華僑には1年に2回ずつ‘指紋’を取らせていた。 中国人には土地・家屋の取得を認めず、その他財産権行使にも種々の制約を加えた。 韓国戦争の爆撃の中で上手く生き残った小公洞と明洞(ミョンドン)一帯の中国人所有家屋はそのような規制のために‘化石建物’となっていった。

在米同胞、市庁前‘整備’嘆願

 1966年10月末、米国大統領リンドン・ジョンソンが訪韓した。 ベトナム戦争参戦7ヶ国歴訪の一環だった。 韓国に来るまで、彼は随所でベトナム戦争介入に反対する大衆から‘ヤンキー ゴーホーム’の声を聞いた。 ところがソウルで彼を待っていたのは想像を跳び越える歓待であった。 金浦(キンポ)空港からソウルに至る沿道全体が熱狂的に星条旗を打ち振る人々でぎっしり埋まっていた。 彼の心にも興奮と感激が沸き上がった。 彼は歓迎客に答礼するために急いで公式歓迎式場に到着しなければならないという事実を忘れた。 市庁前広場で彼を待っていたが退屈した外信カメラ記者たちがカメラの方向を市庁の向い側の中国人の‘化石建物’側に回した。 古くみすぼらしくて無秩序に立ち並んだ建物の姿がカメラにものさびしく収められ、米国のTV画面へ送出された。

 砲声が止み10年後に他国に軍隊を派遣するほどに発展した故国が誇らしくて力が入った在米同胞の肩から再び力が抜けた。 在米同胞は国の顔である市庁前広場周辺を‘整備’してほしいと種々の経路を通じて大統領府に訴えた。 これを契機にソウル市主導の下に小公洞一帯の再開発事業が始まった。 ソウル市は華僑が土地を出せばその土地を合わせて、その上に華僑会館を建ててやるぞと約束した。 家を直したくてもできなかった華僑は快く同意した。 台湾の国民党政府も補助金を送ってきた。 1971年秋、市庁の向い側にあった化石建物が取り壊された。 しかし翌年までに完工すると言った華僑会館は数年が経っても着工される兆しさえ見られなかった。 仮設の建物で営業し華僑会館に入居する日を首を長くして待っていた華僑がだまされたという事実を悟る頃、韓国火薬が彼らの土地を買い入れると提案した。 華僑は何代にわたって作ってきた生活の根拠地、故郷を捨てながらも守ってきた暮らしの根拠を渡して退くほかはなかった。 1975年、市庁の向い側に2幅の屏風を思わせるプラザホテルが着工され翌年開業した。 一緒に90年を越える長い歳月に小公洞一帯に積もった中国人の痕跡も屏風の後方、ソウル市民の視線が届かない所へ消えた。

中国人向けた差別が移住労働者に

この時を前後して在韓華僑の相当数が台湾や第3国に去った。 彼らはほとんど韓国が故郷だった。 彼らにとっては米国やカナダのような第3国だけでなく台湾も‘他国’だった。 それでも韓国人は彼らが自分の隣に根をおろして暮らすようにはしなかった。 韓国人は白人には寛大だったが、中国人には世知辛かった。 在韓外国人に占める華僑の比重が無視できるほどに減った今、韓国人の‘世知辛さ’は東南アジアと中央アジア地域出身の移住労働者に向けられている。

歴史学者

原文: http://h21.hani.co.kr/arti/society/society_general/32207.html 訳J.S