[金東椿(キム・ドンチュン)の暴力の世紀 VS 正義の未来](5049字)
水原(スウォン)拉致殺害事件で目につく警察の無能力
政権にもたれ‘チンピラ権力’振るった韓国警察の帰結
去る3月11日、双龍(サンヨン)自動車解雇労働者が座り込み中の希望のテントを訪問した米国ハーバード大学生たちは催涙液をばらまく警察ヘリコプターと警察がデモ隊を鎮圧する過程で無差別的に殴る場面の出てくる動画を見た。 彼らは‘ショッキング’だとし驚きの声をあげた。 米国にも労使葛藤はあるが、このように無慈悲な暴力が動員されはしないと言った。彼らがソウル 龍山惨事の鎮圧過程を撮った動画を見たとすればおそらく韓国は依然として戦争中だと言っただろう。 実際、鎮圧過程で撤去民5人と警察官1人が死亡したためだ。
←4月9日、ソウル、西大門区(ソデムング)、渼芹洞(ミグンドン)の警察庁庁舎で去る3月に京畿道(キョンギド)、水原で発生した20代女性殺害事件と関連してチョ・ヒョノ警察庁長官が遺族との面談に先立ち頭を下げて挨拶している。 写真共同取材団
民生治安を軽視した点を認めたチョ・ヒョノ
数日前、京畿道、水原で20代の女性が拉致されて亡くなったが、この事件を処理する過程で警察は‘どん詰まり警察’の真の姿を確実に現わした。 警察庁長官が認めたように、今回の警察の対処には無誠意、無能、誤った状況判断、粗末な対処、不良捜索などおよそ考えられるかぎりの失策が全て含まれている。 国民を憤怒させたのは警察がほとんど10回にかけて事件を縮小・隠蔽・偽り釈明を日常的に行ったということだ。 結局4月9日、チョ・ヒョノ警察庁長官が辞退の意思を明らかにした。 映画評論家イ・アンは「被害者は3回殺害された」と語る。第一に申告電話を通じて生々しく伝えられる悲鳴を聞いても夫婦げんか云々して死ぬまで放置していた警察によって、第二に陵辱して殺した後、遺体さえもめちゃくちゃにした拉致犯によって、そして最後に、その凄惨な遺体を見ても偽りの発表で故人に恥をかかせた警察によって…。
2008年3月26日にもこれと同様な事件があった。当時、京畿道一山(イルサン)で起きた小学生暴行および拉致未遂事件の容疑者が数日後に捕まった。 事件発生当初、警察は犯行場面が防犯カメラ(CCTV)に録画されていたにも関わらず、この事件を‘単純暴行’で処理し捜査をきちんと行わなかった。耐えられずに被害児童の両親が直接乗り出し、その内容が放送を通じて知らされ国民の怒りを買った。この事件で警察官6人が懲戒にあった。
今回の水原女性殺害事件について<朝鮮日報>は凶悪犯より‘無能な警察’を叱責し、警察の勤務規律を正して112申告を受ければ当事者の同意がなくとも位置追跡できるように法を変えなければならないと声を高めた。一山の小学生事件の時も主流言論は同じ方式で警察の無能を叱責した。
双龍車デモ隊鎮圧現場にいた警察と水原バラバラ殺人事件現場の警察は所属が異なり、両事件の性格も全く違う。 ところが両事件は共にチョ・ヒョノ前警察庁長官の指揮下で起き、一方の事件は他方の事件と関連している。 李明博政府、特にチョ・ヒョノ前警察庁長官指揮下の警察は‘時局治安’で労働者・撤去民・デモ学生たちに対して無慈悲な姿を見せ、‘民生治安’では極度の無能・隠蔽で一貫した姿を見せたが、前の事件が後の事件と関連している。そしてデモ現場で警察が無慈悲な暴力を行使し、市民の日常では想像だにできない無誠意と無能のために国民の生命と安全を保護する‘警察’ではなかったという点で結果は同一だ。すなわち背景と条件は違うが、両事件で重傷を負ったり死亡した人はわが国社会の下層弱者、当然に国家の保護を受けなければならない人々だ。 チョ・ヒョノ警察庁長官は「112申告センターのように重要な部署に無能な人を発令したことは全面的に自分の責任」と自ら叱責した。 事実上、民生治安を軽視した点を認めたわけだ。
現場専制君主なのか、慈愛深い保護者なのか
もちろん警察が時局治安と民生治安の両方を上手にすれば良いだろう。 ところがそれがそうではない。 制限された人的・物的資源を必要なところに集中投下しなければならない現実的困難もあるだろうが、さらに重要な点は一線警察の行動を左右する警察総長、そして彼を任命し自身が望む任務を任せる最高権力者の意中がどこにあるのかにより、組織のすべての行動が一方に偏るということだ。 李明博大統領が反対を押し切り偽装転入など個人不正疑惑と各種の反人権的発言、陽川署拷問事件など無理な捜査で非難を浴びたチョ・ヒョノ前警察庁長官の任命を強行したことは、彼が京畿警察庁長として双龍車デモ隊鎮圧を成功裏に終え、ソウル地方警察庁長官在職時に時局治安に強硬な姿勢を見せた点を高く評価したためだろう。
それでチョ前庁長は任命直後から民生治安より時局治安に重点を置けとの大統領の方針を確実に履行する姿勢を見せた。李明博政府は初めから‘法秩序’を強調し‘逮捕専門担当班の新設’をはじめ集会・示威に対する強硬対応を指示した。 このような雰囲気の中で警察は授業料暴騰を解決してほしいという学生たちの平和集会に警察官1万4千人余りを動員した。 国家情報院と協力して大運河に反対する教授を‘査察’し、野党政治家の選挙遊説現場について回りもした。 ろうそくデモ以後、曹渓寺(チョゲサ)で座り込み中の手配犯を捉えるために一日平均50人の警察官と数百人の機動隊を動員した。 時局治安のために莫大な人的・物的資源を投じようとすれば、民生治安は当然疎かにするほかはなかった。‘失われた10年’の間、権力の甘い水を味わえなかった各警察署の保安・警備担当者は今後は再び常勝疾走し出世できる時代を迎え、実際に民生治安で卓越した能力を見せた警察官は後回しにされた。 士気が低下した本物の‘民衆の杖’たちは今度は警察内の‘実績主義’と‘政治’に押し出され小さな事件一つもまともに処理できない的外れの足蹴りを続けた。
普通の市民にとって警察はまさに国家だ。最も近くで日常的に彼らと接触し、国家が国民にどのように対するのかは警察を通じて感じる。カナダの法学専門家マリアナ バルヴェルデ(Mariana Valverde)は「警察は武力を使用して人々を拘束し逮捕できる唯一の集団」と言った。 警察の武力がまともに使われれば、その国家は国民の生命・財産保護を最高課題として理解する国家であり、そうでなければ国家は暴力組織のようになってしまう。 警察権力が特別である理由は、ドイツの評論家ヴァルター ベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin)が言ったように専制君主の姿を持って立法的全権と行政的全権を同時に行使するためだ。 すなわち事件現場で警察力は単純な法執行者ではなく、現地立法者の役割まで行使する場合がある。 その上、戦争など国家の非常時期や、きわめて後進的国家での警察は‘即決’の名の下に司法権まで行使する。 それゆえに警察には時に専制君主の姿を見られるが、民主国家では慈愛深い国民保護者の姿を持ったりもする。 現場専制君主としての警察は単に全権の執行者であり、慈愛深い保護者としての警察は社会的弱者のボディーガードだ。
警察国家に再組織された解放後の南朝鮮
←1947年の呂運亨(ヨ・ウニョン)暗殺事件の背後人物として議論される親日高等警察出身のノ・トクスル<ハンギョレ>資料写真
ところで過去の韓国警察は政府に抗議する市民に対しては残忍で険悪な表情をした虎だったが、生業に従事する普通市民には無能で腐敗し不法を日常的に行う集団だった。 これは日帝時期以後、今までほとんど変わることがなかった。 日帝の植民地支配は警察を前面に押し出した。‘巡査’は皆にとって恐怖の代名詞であった。 解放直後に進駐した米軍は日本警察が朝鮮で持つ役割はあまりに大きく広範囲で、世界中どこの国にも似た例を探すのが難しいと診断した。天皇と総督府の忠実な支配道具であった警察は政治学者 丸山真男が描写した軍国主義の下の日本支配層の姿そのものだった。
"支配層の日常的モラルを規定するのは抽象的な法意識でも、内面的な罪の意識でも、民衆の公僕観念でもない。 …自身の利益を天皇と同一視し、自身の反対者をすなわち天皇に対する侵害者と見なす傾向が胚胎したのは当然のことだ。政府の民権運動に対する憎しみ、ないしは恐怖感には確実にこのような意識が潜在されている。"
日帝植民地警察出身の韓国人は日帝治下で天皇の忠僕の役割をしながら同胞をひどく困らせ悪事をたくさん働いたので解放直後には静かにうつ伏せになっていた。 そうするうちに大邱(テグ)10・1事件以後、左翼勢力鎮圧の名分を得て、過去の植民地時期の姿を再び取り戻した。 初期に韓国に進駐した米軍政は当時の朝鮮警察について「朝鮮警察は徹底して日本化されており、暴政の道具として能率的に使われた。 それで植民地警察官だった者たちは同胞に嫌われ威嚇にあった」と語った。 当時あらゆる苦難にあったある人は「その時期に警察を嫌わない人がいたとすれば彼らの家族だけだった」と話すほどであった。 しかし米軍政は日帝警察の忠誠心と効率性を積極的に活用した。 弁護士ロジャー ボールドウィンは「日本では民主化という名の改革を通じて進歩が成り立ったが、南朝鮮は警察国家として再組織された。 …能率と便宜のために民主主義が犠牲になった」と診断した。
解放政局は右翼暴力組織が公権力を代行・補助したり、暴力組織が事実上公権力と共助関係を維持したファシズム状況だった。 そのため米軍政警察と初期大韓民国警察は‘アカ狩り’の名分の下に拷問とテロを行い、権力の保護を受ける私設テロ組織と暴力請負業者の面倒を見ることまでためらいなく行った。米軍政管理人リチャード ロビンソンは 「警察の越権行為、腐敗、そして法執行で政治的不公正性を黙認したという事実だけでも彼らに残っていた小さな名声まで破壊されてしまった」と嘆いた。 1947年の呂運亨暗殺事件の背後にも警察がいたという噂が広まっていた。 宋南憲(ソン・ナムホン)は「この事件の背後が首都(警察)庁長のチャン・テクサンと日本高等係刑事出身のイ・イクフン、ノ・トクスル、チェ・ウナらが背後勢力である可能性が大きく、実行は西北青年会である疑いが濃厚だ」と述べた。
警察は地方では搾取組織でもあった。 一部の警察署長は政府要人を背景として赴任した者であり、自分の治下にある私設団体、例えば救国同盟などの右翼組織を動員して農民から絞り取った。 任実(イムシル)と高敞(コチャン)など全羅道(チョルラド)では数十世帯の農民が警察署長に牛を奪われもした。 この地域で警察署長の権力と背景がどれほど強かったのか、とうてい触れられなかった。 それで国会で警察出身のチャン・テクサン自身も「全羅道一帯はこれが果たして法治国家なのか、大韓民国領土なのか疑う状況だ。 …警察が人を蝿のように殺している」と嘆くほどであった。
‘民主警察’の消されない過去
この時期の警察は無力な国民、左翼に同調しているという疑いをかけられた国民には恐怖そのものだった。 討伐を名分に住民たちを捕まえ殴り拷問して、町内に入っては牛・豚を奪い飽食することは全国随所で発生した。 そのtめに住民たちは彼らを‘山奥大統領’と呼んだ。 山奥で警察は立法・司法・行政権を持つ専制君主であった。 彼らにこういう莫大な権力を付与したのは李承晩政府であった。 植民地時期よりさらに多くの人々が警察による暴行と暴言にあい、さらに多くの人々が警察署に捕えられ拷問にあい、さらに多くの人々が裁判を受けないまま警察の銃に撃たれて死んだ。 今日の‘民主警察’がいくら消したくても消すことのできない過去の自身の姿だ。
聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授
原文: http://h21.hani.co.kr/arti/society/society_general/31828.html 訳J.S