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原子力発電所廃棄物‘100,000年保管’の意味

原文入力:2011-05-06午後08:08:15(2774字)

ハン・スンドン記者

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ディアスポラの目/

原子力発電所は‘トイレのないアパート’だと言う。福島事態が進行中であるのに依然として多くの国が廃棄物処理に対する展望もたてられないままに稼動している。若い世代は今後も放射能に対する不安と憂鬱の歳月を生きていくことになるだろう。

福島原子力発電所は未だ復旧の兆しさえない。まだ爆発と放射能大量噴出の危険が消えていない。チェルノブイリ原発事故に匹敵する大型事故だ。いや事態はまだ制御不可能状態で進行中であるため、チェルノブイリを凌駕する大災難になることが明らかだ。余震も続いている。震源地から200km以上離れた東京でも、時々建物がグラグラと揺れるのが感じられる。原子炉と建物に決定的な亀裂ができたり、再び津波が襲うかも知れないという不安の中で暮らす毎日だ。まるで地底に隠れている巨大な火龍が何か明確な意図を持って執拗に暴れる局面だ。

東京電力は先週、当面する危機的事態を免れるまでに6ヶ月乃至9ヶ月かかるという‘工程表’を発表したが、恐らく東京電力自身や日本政府まで含めて これを額面どおりに信じる人はいないだろう。その上、たとえこの工程表どおりに仕事が進行されたとしても、まだ原子炉廃炉へ進む長い道程の始まりに過ぎない。そうした後にまた数十年という不安な歳月を私たちは漏れ出る放射能と一緒に暮らしていかねばならない。チェルノブイリは事故発生後 25年が過ぎたが現場はまだ放射能の危険が残っており、その管理のために莫大なお金と努力を投じている。何も生み出さない、まさにシニカルな費用だ。福島もそのような道を歩むことになることが確実だ。

私は植民地支配と戦争時代の後に生まれ日本で育ったので韓国の軍事独裁政権も直接体験はできなかった。客観的に見れば平穏な毎日だったと認める他はない。心の一方にこのまま人生を最後まで平穏に送ることができればという小市民的な願いがあったことは否認しない。地下で暴れる火龍はそのような私に痛烈な警告だ。

今回の事態で事物の尺度が大きく揺らいだ。特に時間の尺度が。今、確実なことは私が生きている間には福島事態が解決されることを見ることはできないということだ。私はすでに60才だが私の学生たち、同僚の子供たちのような若い世代も今後ずっとこの不安と憂鬱の歳月を生きていくことになるだろう。人生という時間尺を根本的に考え直さざるをえない。

何日か前、妻とともに映画を観に行った。節電のために照明を下げた商店街を歩いて小さな映画館に到着すると、まだ上映開始一時間前なのに切符を買おうとする人が列をつくっていた。 それだけ関心が高いのだ。その映画は<100,000年後の安全>(原題‘Into Eternity’)という2009年製作のドキュメンタリー映画だ。韓国でも封切られただろうか? ぜひ多くの方々が一度観られることを薦める。
フィンランドの首都ヘルシンキから西方に約240km離れたオルキルオトという島に巨大な地下施設が建設されている。 放射性廃棄物を地下500mにある18億年前の安定した地層に保存し、人体に害がなくなる10万年後まで保管しようというものだ。これを‘オンカロ(フィンランド語で隠された場所という意)プロジェクト’という。

原子力発電所は‘トイレのないアパート’とも言う。高濃度放射性廃棄物は特殊なガラスで固定しステンレス容器に密閉し30年から50年かけて冷ました後に地下数百メートルに埋めることになっているが、日本ではまだ最終処理場の建設場所さえ決まっていない。廃棄物処理に関する何の展望もたてられないままに稼動しているのだ。 他の国も事情は似たり寄ったりだ。

しかし100,000年がいったいどんな時間なのか。去る100年間だけで2回の世界大戦が起きた。大きな災害と気候変動の影響も受けることになるだろう。そのような変化を耐え抜き10万年の間ずっと保管するということが可能なことなのか。だいたい100,000年後に人類が存在しているのだろうか。未来の人間が再び掘りおこすならばどうすべきか。"危険、掘るな!" という警告メッセージをどうすれば100,000年後の人類に伝えることができるだろうか。100,000年前と言えば、ネアンデルタール人の時代だ。私たちはネアンデルタール人どころかエジプトのピラミッドやナスカの巨大な地上絵メッセージさえも正しく理解できなくなっているというのに。それでもこういう方法しかないということだ。どれほどシニカルな人生なのか。人間はどうしてこのようなとんでもないことに手をつけてしまったのか。

放射能は味も臭いもなく感知することもできない。したがって放射能の恐怖は“痛い”とか“熱い”という直接的感覚によっては知りうる方法がないという不安から始まる想像力の産物だということだ。言うまでもないが、想像力を遮断するといっても放射能の危険が消滅するわけではない。マイケル マドセン監督の映像はすさまじいまでに美しい。その美しさは骨が凍りつくような恐怖を伴う。それは100,000年という時間に対する私たちの想像を刺激するためだ。いや正直に言えば、想像することもできないということを考えさせるためだ。

福島事態が進行中であるのにも関わらず、メディアらの世論調査では原子力発電所を‘廃止または、縮小’するより‘増設または維持’しなければならないという応答が相変らず多数を占めた。地方選挙でも原子力発電所推進または容認派の知事たちが相次ぎ当選した。どうしてこうしたことが起きるのか?

政府と電力会社の宣伝に洗脳されたためという解釈がある。それも一つの要因には違いないが、作家 髙村薫の次のような解釈が私の考えに より近い。"福島で起きていることを真剣に受け入れることが辛くて、そうなんじゃないだろうか。体験してみたこともなく前が見えない、いつ終わるのか展望さえ見えない現実から多くの人々がどうにかして視線を転じようとしている。”(<東京新聞>)

人間は弱く愚かだ。想像だに恐ろしい試練に耐えられず目の前の便利や利益だけを見て思考を停止する。戦争や虐殺の歴史的教訓から視線をそむけ、愚行と蛮行を繰り返す。人間は自らこの弱さと愚かさに勝ち抜くことができるだろうか。

徐京植(ソ・ギョンシク)/東京経済大学教授、訳 ハン・スンドン論説委員

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/476740.html 訳J.S