1996年の釜山国際映画祭(BIFF)の誕生は必然的でもあり、突出的でもあった。「安物」として無視されてきた韓国の歌謡と映画が、1990年代中盤に入ってから本格的な産業の跳躍台に乗り、弘大前のインディーズバンドと芸術映画に対する大衆の熱狂は国際映画祭の誕生の呼び水になった。
ソウルではなく釜山(プサン)で映画祭が誕生できたのは、京城大学のイ・ヨングァン教授、釜山芸術大学のキム・ジソク教授、映画評論家のチョン・ヤンジュン氏など、釜山を基盤とする映画人たちが集まったためだ。彼らは、キム・ドンホ元映画振興公社社長を初代執行委員長に推薦し、アジア中心の非競争的な映画祭を発足させた。ソウルでもない釜山で芸術映画中心の映画祭が成功するはずがないという周辺の冷笑とは裏腹に、初回から南浦洞(ナムポドン)一帯が映画ファンで埋め尽くされ、成功の信号弾を打ち上げた。
以後、アジア映画作家の産室として西欧映画祭との差別性を浮き彫りにして定着した。第1回から参加した今年のパルムドール受賞者のジャファール・パナヒをはじめ、モフセン・マフマルバフなど、自国で迫害を受けたイランの映画人たちにとって、BIFFは創作の出口であり、世界の観客に会う最初の窓口となった。いまや世界が認める中国の賈樟柯を発掘したのもBIFFだった。1998年のデビュー作『一瞬の夢』で、才能ある新人監督を発掘するニューカレンツ賞を受賞した賈樟柯は、その後世界の舞台で活躍し、2006年ヴェネツィア金獅子賞を受賞した。出席スタンプを押すかのように釜山をよく訪れた賈樟柯は、昨年「私の映画人生は釜山で始まったと言っても過言ではない。 釜山はいつも懐かしい場所だ」と愛情を示した。
30年間、陰と傷もあった。2014年、釜山市がセウォル号惨事ドキュメンタリー『ダイビング・ベル セウォル号の真実』の上映を取り消すよう圧力を加えたが、映画祭は上映を強行した。その後、釜山市は補助金削減と共にイ・ヨングァン執行委員長に対して徹底した監査を行い、これは映画祭の独立性と表現の自由に対する国際的議論に広がった。韓国の映画人だけでなく、世界有数の映画祭が支持メッセージを送った。結局、ソ・ビョンス釜山市長が映画祭組織委員長から退き、大々的な組織改編が行われたが、その過程で組織内部で生じた対立の火種が2020年代まで続き、2023~2024年の映画祭は執行委員長不在のまま行われた。
映画祭の創立メンバーとして初期に副執行委員長を務め、昨年復帰したパク・クァンス理事長は、今年で30回目を迎えた映画祭の変化を推進した立役者だ。パク理事長は「ゲスト、観客、市民など映画祭に訪れる人々の立場で、映画祭の運営方式を改善する必要を感じた」とし、「競争部門を新設することがアジア映画を浮き彫りにすることにおいてより良いという判断をした」と述べた。