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[インタビュー]「日本軍の日誌で『慰安所は軍の附属施設』を論証した」(2)

登録:2023-02-28 08:56 修正:2023-03-10 07:37
韓信大学日本学科のハ・ジョンムン教授 

(1から続く)

ハ・ジョンムン教授の著書『陣中日誌にみる日本軍慰安所―日本軍「慰安婦」問題解決の突破口を開く』//ハンギョレ新聞社

 ハ教授は著書で、日本軍が慰安婦たちを軍属と見なしていたことを示す資料もいくつか提示した。1943年にビルマ(現ミャンマー)の首都ヤンゴンに駐留する日本軍慰安所管理人が、軍組織の野戦郵便局を通じて自分と「慰安婦」の貯金を送金したのがその例だ。また、沖縄県東南の沖大東島の慰安所の「慰安婦」たちは、1945年初めに米軍の艦砲射撃が予想される瞬間にも島の外に出ることができなかった。民間人は全員島を離れろという連隊本部の指示にもかかわらず、「慰安婦」は民間人に含まれなかったためだ。「ビルマでも日本軍が英国軍と戦闘を繰り広げる激戦地に慰安婦はそのまま残っていました。資料がないので確認はできませんが、沖縄の事例にその答えがあるでしょう」

 ハ教授は1937年12月、日本の中支那方面軍が南京陥落を控えて司令部レベルで慰安所の設置を急いだことについて「慰安所設置の『ビッグバン』だった」と表現した。「日中戦争前にも慰安所がありましたが、性格が大きく異なります。以前は売春施設を通じた軍人の性病拡散の統制に注力しましたが、日中戦争後には軍が本格的にシステム的に慰安所の設置と運用に関与しました」とし、「民間の売買春施設従事者の性病検診の予防などを規定した『娼妓取締規則』が、日中戦争以後には日本軍の文書などで全く言及されないのも、慰安所に対する軍の直接的な関与を裏付けている」と説明した。

 1938年11月15日、日本軍第2師団第3兵站輜重(しちょう)兵中隊の日誌によると、中国武漢近くの應城駐屯軍部隊に「まもなく慰安所が開設される」という知らせが来る。日本軍の「應城掌握」から15日後のことだった。まだ戦場の整理がついておらず、敗残兵が出没するので、部隊員の日曜日の外出は認められていなかったが、慰安所の出入りの際は許可証を交付したという。日本軍はなぜ慰安所の設置を急いだのだろうか。「戦闘が終わったばかりなので、部隊員の統制が容易ではなかったのでしょう。殺気立った部隊員の反抗をなだめる意図があったと思います。(慰安所を)戦闘直後に日本軍兵士に唯一許された安全な場所であり、『娯楽』とみなしたのです」

 ハ教授はソウル大学人類学科を卒業した後、日本史に専門を変えて東京大学日本史学科で「戦時労働力政策の展開」をテーマに博士号を取得した。日本史に関心を持つようになったのには、祖父と伯父が日本で移住労働をした家族史も影響を及ぼしたという。

 ハ教授は慰安所研究の意味をこのように指摘した。「慰安婦問題で被害者のハルモニ(おばあさん)たちの存在と証言が最も強力な武器だったのに、多くのハルモニたちが亡くなっていっています。私は『慰安所研究』が新たに慰安婦研究と活動を続けていく迂回路だと思います。慰安所の記録を新たに発掘し、その実体を明らかにすれば、ハルモ二たちの証言も歴史性を保つことができるでしょう」

 ハ教授は「今後はこれ以上慰安所研究をする計画はないが、他の研究者の要請があれば集めた資料を共有する」と語った。「今後、慰安婦がどのように船に乗ったのかを明らかにする『渡航研究』が必要です。慰安婦が日本軍とどのような従属関係で渡航証を手に入れたのかを明らかにする必要があります」

 ハ教授は3年前に出した本『なぜ日本は韓国を征服したがるのか』で、「朝鮮半島の中立化」を「韓国の生存と東アジアの安定を生み出し保障する唯一無二の戦略」だと強調した。

 インタビューの終盤に、なぜ朝鮮半島の中立化なのかと尋ねた。「日本が朝鮮半島を自分たちの影響力のもとに置こうとしたのは、日本に敵対的な勢力が朝鮮半島を支配すれば、自分たちにとって脅威になると考えるからです。もちろん、そこには自分たちの勢力権を拡張しようという意図もあったはずです。私は、日本が前面に押し出すこのような侵略の口実を与えないためにも、朝鮮半島の中立化が必要だと思います。朝鮮半島によって東アジアの安全保障バランスが揺るがされることを防ぎ、中国や日本と同時に良い関係を保つための道は中立化しかありません」

カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/1081453.html韓国語原文入力:2023-02-28 02:33
訳H.J

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