仁川(インチョン)広域市中区(チュング)は、近現代の歴史を抱く地域だ。1883年(高宗20年)の済物浦(チェムルポ)港(仁川港)の開港後、外国人の往来と貿易のために開放された区域である「開港場(ケハンジャン)」の痕跡がまだ至る所に残っている。最初に建てられた近代建築、外国人居住地域(租界)などがそれだ。現在の行政区域としては中区の新浦洞(シンポドン)、開港洞(ケハンドン)、東仁川洞(トンインチョンドン)一帯を開港場と呼んでいる。西欧の文物が入ってきた街であると同時に、日帝による収奪が本格化した苦い歴史を秘めた場所、開港場。最近は異国情緒あふれる風景とレトロ風を好む若者の旅先として人気を集めている。
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チャジャン麺誕生の地
4日、開港場の最初のコースとして仁川中区開港洞にあるチャイナタウンを訪れた。仁川駅の向かいに「中華街」と書かれた赤い扁額が掛けられた牌楼(中国式の伝統の門)が見えた。チャイナタウンには全部で4つの牌楼があるが、これが最初の牌楼だ。南側の玄関口であり中心の門であるこの牌楼に掲げられた中華街とは、「中国人の街」を意味する。牌楼の先に進むとコンガルパン(中身が空洞の中国のパン)、甕で焼いた饅頭などを売る中華式の製菓店、羊肉串焼き店、赤い看板を掲げた数十店の中華料理店が立ち並んでいた。新年の幸運を祈る「福」という漢字の書かれた赤い紙が風になびいている。「韓国の中の小さな中国」と呼ばれるとおり、中国の小都市に来たような気になる場所だ。昔から観光名所として知られているが、コロナの影響で廃業した店がいくつか見られた。
チャイナタウンは1883年の仁川の開港によってできた場所だ。開港により中国人がやって来て集住していた場所、清の租界(清国専管理租界=清管)だった。華僑の歴史が始まった場所でもある。現在ここには華僑の2、3世たちからなる170世帯あまり、およそ500人が住んでいる。
仁川の代表的な観光地であるこの場所は、チャジャン麺が誕生したことでも有名だ。中国の山東地方から渡って来た華僑が麺に野菜と味噌をのせて混ぜて食べていた「ジャージャー麺」に由来し、光復(独立)後にキャラメルシロップ入りの甜麺醤が入り、いま我々が食べている黒いチャジャン麺となった。
チャジャン麺誕生の地らしく、チャイナタウンにはチャジャン麺の歴史を紹介する「チャジャン麺博物館」(国家登録文化財第246号)がある。2階建てで「共和春」の建物を改修したものだ。共和春は、韓国でチャジャン麺を初めて開発・販売した店として知られている。博物館ではチャジャン麺の誕生と歴史、変遷の過程などを見ることができる。1930年代の共和春のホール、1960年代の共和春の厨房の様子を実物に近い模型で展示してある。観覧時間は午前9時から午後6時まで、入場料(大人)は1千ウォン(約97円)、月曜日休館。
チャジャン麺博物館を出て自由公園の方へと上っていくと、華やかな壁画が目を引く「三国志壁画通り」に行き当たる。三国志の名場面を160枚の壁画に描いてある。諸葛孔明、劉備、関羽などの話を紹介する長さ150メートルの大壁画だ。
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各国の租界と、それを分ける階段
壁画を見ながら上っていくと、自由公園に行きつく。仁川の桜の名所として知られる自由公園は、1888年に開港場租界内に造成された韓国最初の西洋式近代公園だ。開港当時、各国からやって来た西洋人が作った彼らだけの休憩スペースで、もともとは万国公園と呼ばれていたが、マッカーサー将軍の仁川上陸作戦以降、自由公園と名が変わった。この一帯は開港後にやって来た米国、英国などの西洋人が住んだ地域だった。
自由公園の近くには、仁川に住んでいた外国人たちの社交クラブ「済物浦倶楽部」がある。俳優のコン・ユが主演したドラマ『トッケビ~君がくれた愛しい日々~』の撮影地となったことでさらに有名になった。1901年6月に建設されたこの建物はレンガ造りの2階建てで、図書室やビリヤード場などを備えていた。現在は展示館として無料で開放されている。月曜日休館。
自由公園からチャイナタウン方向に下りていくと、急な斜面にある「清日租界地境界階段」を見ることができる。階段の上には、中国の青島から寄贈された孔子像が立っている。日本人の居住地域「日本租界」と中国人の居住地域「清租界」の境界にある階段で、段を中心として両側の雰囲気が異なる。様々な食べ物を売る露店や中華料理店の多い清租界が華やかな風景なら、日本租界は日本の木造建築や近代建築などからなる落ち着いた雰囲気の街だ。
仁川文化観光解説士のキム・ミヨンさんは「清日租界地境界階段は外国人の居住地、仁川港などが一望できる場所。異国的アイデンティティを持つ開港場の歴史と文化の薫る意味ある場所であるため、開港場に来たら必ず立ち寄るべき必須コース」だと説明した。
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開港期の仁川の風景
清の租界はチャイナタウンとして発展したため広く知られているが、すぐ隣にある日本の租界はここ数年、都市再生事業が進められているため活気を帯びている。日本の租界だった場所は日本風の木造建築があり、ここに日本人が住んでいたことを示している。数十年から100年以上前の建物がリフォームされ、文化空間やカフェに変貌しているのが複数目につく。
日本の租界だったこの場所には、近代の歴史が分かる博物館がある。近代建築に関心があるなら「仁川開港場近代建築展示館」を旅のコースに入れることをお勧めする。この展示館は1890年に建てられ、かつては日本の「第十八銀行仁川支店」だった建物。日本は、中国を相手とした綿織物の仲介貿易で大きな利益を上げると、輸出入と通関業務の中心地だった仁川に銀行の支店を作った。日本が韓国の金融界を支配することを目的として建てたものだ。同展示館には仁川郵逓司、内里(ネリ)教会、仁川駅などの近代初期の建築の写真や、ジョンストン別荘、英国領事館などの、今は焼失した西欧式建築の模型が展示されている。仁川の近代建築の歴史と特徴に関する説明も聞ける。昔の姿がそのまま残っている「日本第十八銀行仁川支店」の金庫だったスペースでは、開港場の銀行通りに関する展示を見ることができる。
「仁川開港場近代建築展示館」のすぐ隣にある「仁川開港博物館」は、仁川の開港史が一度に見られる場所だ。ルネサンス式石造建築であるこの建物は、1899年に日本の第一銀行の仁川支店として建てられたもの。1883年の開港から日帝強占期の始まる1910年までの開港期に、仁川を通じて紹介された近代文化の様々な遺物が展示されており、開港後の近代仁川の姿がうかがい知れる。
仁川開港博物館の近くには、韓国初の西洋式ホテルだった「大仏ホテル展示館」がある。1978年に撤去された同ホテルの外観を、考証によって再現したもの。大仏ホテルの歴史がうかがい知れる1館、1960~70年代の仁川中区の生活史が体験できる2館からなる。
大仏ホテル展示館から歩いて3分のところには、仁川アートプラットフォームがある。1930~40年代の建築をリフォームした創作スタジオ、工房、展示場などがあり、13棟からなる。現代の芸術家たちが近代の歴史的空間を芸術の場として再生したもの。歴史のアートプラットフォームの一角には、レンガ造りの建物の前に重い背負子を背負い、厳しい表情をした「開港場の背負子屋」の銅像がある。開港当時、港湾労働者として働いていた朝鮮人を形象化したものだ。開港という歴史の渦の中、底辺で働いていた人々の厳しい暮らしが感じられる。
キム・ミヨンさんは「仁川開港場は、国を奪われ、収奪された痛みを感じさせてくれる歴史的場所でもあり、多くの国の人々が活動し、居住し、外国の文物がもっとも早く入ってきた当時のホットプレイスのような場所でもあった、近代の歴史に関する最初の建築も多いので、路地を巡りながら隠れた絵を探すように、様々な歴史空間に出会えるだろう」と話した。
(*コロナ防疫守則を徹底して順守し取材・作成した記事です)