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[レビュー]脱原発の切迫した叫び…「根源的民主主義」求める

登録:2021-06-12 09:31 修正:2021-06-12 12:43
技術・権力・国家など網羅して原発を考察した「ハイブリッド」哲学 
原発が作った構造的差別を越えた政治・社会システムを強調  

『脱原発の哲学』佐藤嘉幸・田口卓臣著、イ・シンチョル訳/図書出版b、2万2000ウォン
『脱原発の哲学』佐藤嘉幸・田口卓臣著、イ・シンチョル訳/図書出版b、2万2000ウォン//ハンギョレ新聞社

 人類最悪の大災害といわれる日本の福島第一原発事故が起きてから、もう10年がたった。しかし原発は依然として稼働しており、一部では「科学技術で制御可能だ」という楽観論に基づき、原発の必要不可欠さを強弁する声も続いている。根本的に原発はいつでも人類全体を「自己絶滅」に陥れる危険性をはらんでいる核兵器と変わらないものという点を考えると、経済成長や技術発展が人間の生存より優先されるという倒錯状態、すなわち「例外状態の正常状態化」が続いているわけだ。

 『脱原発の哲学』は、福島事故から5年後の2016年、佐藤嘉幸筑波大教授(50)と田口卓臣宇都宮大教授(48)が共著で出版した本だ。佐藤嘉幸氏はミシェル・フーコーなどのフランス現代思想から独自の理論を練ってきた哲学者と評価されている。両著者はこの本で、哲学とさまざまな分野の「クロスオーバー」を通じて、科学技術と権力の問題、国家と資本が作る構造的差別の問題、戦後日本の民主主義の問題などを行き来し、これらを総合して「脱原発の哲学」を提示する。

 両著者は、原発についての議論は科学技術の領域にとどまらない「権力と知識」の問題だと指摘する。ミシェル・フーコー(1926~1984)の概念を借りれば、権力は何かについての知識を作り出し、互いが互いを含む結合関係を成す。そもそも国家権力と知識が結合した結果物が核兵器開発であり、これを民生用に変容させたのが原発だ。核兵器と変わらない「絶滅技術」というものを選り分ける一方、経済社会的コストに合わせてこれを管理するために、権力はさまざまな「安全」イデオロギーを作り出す。

2011年3月、東日本大震災当時、無人航空機によって福島第一原発上空から撮影された原子炉3号機の様子。まるで爆撃を受けたように形が分からないほど破壊された3号機からは、放射性物質が漏れ続けていた/聯合ニュース
福島原発事故から10年を控えた今年3月、日本の福島県富岡町の「帰還困難」区域に、除染作業で回収した土や草などを入れた大きなフレコンバッグが仮置き場に積まれている/聯合ニュース

 低線量被ばくと関連した「許容値」問題が代表的な事例として挙げられる。福島第一原発事故後、日本政府は1ミリシーベルトとされていた一般の空中放射線の年間被ばく量の限度を20ミリシーベルトに引き上げた。この時、20ミリシーベルトという許容値は、国家権力が統治の便益性を計算した結果にすぎず、科学的に導き出された結果とはかけ離れている。この基準を適用したことで、日本政府は放射能汚染による避難地域を福島県の浜通り辺りまでに制限し、福島市などは避難地域から除外することができた。言わば実際に被ばくが人間に及ぼす危険がどのようなものなのかは考えず、「経済的社会的費用が膨らむのを避けるために、ある程度人間ががんで死ぬ可能性を許容」するイデオロギーが発揮されたのだ。このような権力-知識は原発の導入から事故の懸念の払拭、事故対処、汚染地域からの避難と帰還、これに対する補償と賠償など、原発と関連したシステム全般で作動している。

 原発は「構造的差別」を作り出す。原発が持つ危険を分配するシステムそのものが差別的であるためだ。大災害につながりかねない事故の危険性のため、集団的被ばくのリスクを減らすとして人口の少ない地方に原発を設置したことや、電力に関する法律(電源三法)により原発を誘致する地域にインセンティブを与え従属化させること、下請会社の労働者の被ばく量が電力会社の社員よりはるかに多いことなどが、このような構造的差別の実態を赤裸々に示している。

 このような中でもまるで何の問題もないかのように原発が稼動してきた背景は何だろうか。著者は、戦後日本の「管理された民主主義」を決定的な背景として指摘する。第二次世界大戦の敗戦国である日本は、表面的には平和主義と民主主義の看板を掲げて再出発したが、その本質的な構造は工業=軍事立国という国家と資本の論理に基づいた中央集権的な統治であり続けたというものだ。原発は単純なエネルギー生産システムではなく、核兵器の材料であるプルトニウム生産に帰結するという点で核兵器生産と分離することはできず、このために近代日本が戦後も一貫して追求してきた「殖産興業政策」(工業立国)と「富国強兵政策」(軍事立国)の中核となってきた。

 両著者は脱原発哲学の理論的背景としてハンス・ヨナス(1903~1993)とジャック・デリダ(1930~2004)の議論を引用する。ヨナスは『規範としての責任性』(Imperative of Responsibility、1979)で「未来世代に対する責任」を考慮した倫理学を唱えた。現代の科学技術は人間自身による制御を超える特性を持っているため、結局は人間そのものが技術の対象になってしまうだろう。したがって、「いま存在する者」だけを考える倫理学は「まだ存在していない者」、すなわち未来世代を考える新しい倫理学に替わるべきだと主張する。未来世代を丸ごと危機に陥れる「核=原子力」は最大の問題だ。さらにチェルノブイリと福島という2つの大災害が発生した後、私たちは来るべき大災害を心配する「事前」ではなく、すでに事が起こった「事後」に立つようになった。この地点では『マルクスの亡霊たち』(1993)でデリダが「現時点で実現されなければならない」切迫さを強調する意味を込めて提起した「到来すべきデモクラシー」という概念を参照する。到達することのできない「未来の現在」ではなく、今ここで脱原発が「切迫して実現されなければならない」というのだ。

 脱原発の哲学は、脱原発を当り前の表面的な修辞に置いとどめてはおかず、新しい政治社会システムの必要性をも提起する。日本の国民の77%が脱原発に賛成しているにもかかわらず、政界は何の意志も持っていない。「管理された民主主義」の限界、すなわち国家と資本の論理を掲げ、中央集権的統治システムを振り回してきた戦後日本の重要な問題がここに現われる。したがって、この「管理された民主主義」を直接民主主義的かつ分権的で国家と資本の論理に基づかない「根源的(radical)民主主義」へと変革し、これを通じて新しい国家・社会システムを作ることが脱原発の核心となる。両著者は、すべての国民の未来に関する重要な政策決定に関しては、国民投票の施行が必要不可欠だとし、国民の「一般の意志」によって脱原発を決めようと主張している。

チェ・ウォンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/998931.html韓国語原文入力:2021-06-11 10:25
訳C.M

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