昼夜を問わず机にかじりついて重労働をしていたが、官能的な天気の誘惑に勝てず、汝矣島(ヨイド)行きの地下鉄に乗った。
汝矣島はよく米ニューヨークのマンハッタンにたとえられる。証券取引所や金融監督院をはじめ大小の金融機関があり、放送局があり、美しい川が流れ、2つの魅力的な公園があるところも似ている。マンハッタンがセントラルパークとブライアント公園を誇るように、汝矣島にも汝矣島公園とアンカラ公園がある。
汝矣島で働く人々は、自ら「島人(ソムサラム)」と呼ぶ。このことからも分かるように、汝矣島にはそこならではの文化や情緒、雰囲気のようなものがある。その「島文化」と30年来の縁がある私は、2つの公園を中心として汝矣島に再び向き合ってみることにした。この島には地下鉄の駅が4つもあるが、その一つの国会議事堂駅で降りて4番出口から出た。国会を背にして直進すると広い汝矣島公園があらわれるが、まず右側のKBSの方に向かう。正門前に熱烈なファンが陣取っているのを見ると、音楽放送のある日のようだ。放送時間が近づくと、ハリスコーヒーをはじめ正門前のカフェはマネージャーたちの「待ち合わせ広場」に変わる。
汝矣島は韓流の故郷だ。一時ここには地上波3社が集まり、イ・ビョンフン監督の『宮廷女官チャングムの誓い』や、“ヨン様”の『冬のソナタ』など数多くの韓流ドラマが制作された。一部では韓流について「すべて幸運」の結果だと低評価する人もいるが、決してそうではない。韓流は汝矣島の“セクシーな”文化と関連が深い。誤解は禁物、ここで言う“セクシーさ”とは単に肉感的なことばかりを意味するのではない。「ベルリンは貧しいが、セクシーだ」と言ったドイツのクラウス・ヴォーヴェライト元ベルリン市長の表現のように、他人とは違う考え方を持ち、変わった表現をし、自分ならではのライフスタイルを見せることを意味する。脳がセクシーで、型破りなスタイルで、チャレンジ精神があふれていたところがまさに全盛期の汝矣島だった。
動画コンテンツはセクシーでなければそっぽを向かれる。昔のままの展開方式や陳腐な内容なら、1分も目を向けてもらえない。「お箸の文化」と家族意識という共通の東方遺伝子を土台に、キムチに代弁される韓国的な感受性を混ぜ合わせて、現代人が好む成功ストーリーとして表現した結果が韓流ドラマだった。単純な3色が支配していた時代劇の画面を果敢にも40色に変えたことや、きわめてゆっくりとした台詞回しをスピード感のある現代的な言い方に変えた。このように伝統的な素材を果敢な自己破壊の過程を経て、感覚的な映像言語に衣替えさせたため、韓流時代劇は世の中に名を馳せることができた。自己破壊こそが韓流の胎動の立役者であり、汝矣島が誇ったセクシーな島文化の要諦だと私は口にしている。惜しくも汝矣島はその主導権を江南(カンナム)に奪われてしまった。
KBSを通りすぎ、汝矣島公園に到着した。ちょうど昼休みだったので、弁当やサンドイッチを持参した人たち、散歩に出てきた近所のサラリーマンたちでにぎわっていた。1969年、汝矣島に国会議事堂が建てられ、2年後に一緒に造成されたのが「5・16広場」だ。集会の会場や自転車に乗る場所として愛用されてきたアスファルト広場がこんにちの緑多き空間に変わったのは、初代民選のチョ・スン・ソウル市長の時代。ついに1999年、汝矣島公園という名で生まれ変わった。公園の外郭を取り囲んで造られた3.9キロメートルの散策路と、2.4キロメートルの自転車道路が人気だ。
公園の真ん中に見える大きなプロペラ飛行機は、解放直後の1945年8月18日未明、光復軍隊員4人が米戦略情報局(OSS)隊員とともに汝矣島広場に着陸したC-47だ。同年11月23日には金九(キム・グ)をはじめとする臨時政府の要人15人がこの飛行機に乗って金浦飛行場に入国したのだから、現代史の劇的な瞬間をともにした証人といえる。1916年に日本軍が汝矣島に滑走路と格納庫を建設。その後、京城第2飛行場として活用し、解放後は民間空港として利用された場所だ。このように汝矣島は当初から海外と近い縁を結んできた。
汝矣島公園の散歩を終え、広場を横切って全経連ビルの方に渡った。ここは51階に建て替えられ、新たなランドマークとして登場した。1979年、もともとの建物が竣工されたとき、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領が出席する予定だったが、直前に発生した10・26朴正煕暗殺事件で取り消しになり、「創造、協同、繁栄」という朴元大統領の直筆の揮毫が刻まれた標石だけが、ビルの裏側に広場マンションを背景として建てられているだけだ。数多くの建て替えブームにもかかわらず、汝矣島には昔の姿にこだわるマンションが多い。サムブ、スジョン、ミソン、コンジャク、ソウルアパートなど、マンション名も昔風だ。年々人口は減っているが、この島には汝矣島高校をはじめ小・中・高校がある。
歩いていると汝矣島駅を経て、いつの間にかセッカン駅にたどり着いた。3番出口から出るとアンカラ公園があり、いつからか「姉妹公園」という標識に変わっていた。公園の真ん中に建てられた建物は、1977年にアンカラ市から寄贈されたトルコの伝統的なブドウ園住宅だ。公園の前にはKBS別館、横には知識文化を新たに充電するコミュニティ公共機関「永登浦50プラスセンター」(シニア層が参加する活動を行うソウル市傘下の機関)があり、知識と意味、そして楽しみに対する渇望を同時に満たすことができる、汝矣島の宝石のような空間だ。
半日歩いたので、もう身体の飢えを満たす時間だ。物寂しそうにみえるが、汝矣島には意外と名店が多い。華僑直営の中華料理店「新東陽(シンドンヤン)飯店」と「西宮(ソグン)」、「晋州コングクス」、どじょう鍋とカルビで有名な「旧馬山(クマサン)」、牛ともばら肉の専門店の「高麗亭(コリョジョン)」、餃子屋の「山河」、「シンソン韓食」のタラ鍋などが有名だが、私の足は五輪ビル1階にある焼き魚専門店の「ダミ」へと向かう。30年以上のご縁の素朴な店だ。ちょうどコノシロ焼きの季節で、毎年この時期になると秋の儀式のように訪れている。
かつてペストの暗鬱な時期が去った後に中世は終わり、ボッティチェリに代表される華やかでセクシーな芸術が繰り広げられた。新型コロナが過ぎれば、この地にも新しいルネッサンスが開かれるだろう。その前にすべきことは、陳腐さと旧態依然とした方式を捨てること、すなわち果敢な自己革新だ。そう、生き残るためにはセクシーでなければならない。