市場で葛汁を売る母のために、息子は若い時代友だちと一緒に一日200~300キロの葛(くず)を山で掘ってきた。母は1キロあたり500ウォンずつ息子に与え、息子は葛をとるためにシャベルと鍬をふるったため、引っ張る腕の力がとても強くなった。息子はまた、栗が取れる時期には1袋に40キロほど入る栗を何百個も拾い、母親に持っていって生活の足しにした。
ところが、大学卒業式前日の夜の2006年2月、息子は親の農作業を手伝いトラックを運転していた途中、対向車と衝突する交通事故に遭った。4日目に目を覚ますと、両足がなかった。3年間失意の中に閉じこもった。しかし、家族の力で再起し、車椅子バスケットボールなど障害者スポーツを通じて第2の人生を始め、9年目にして五輪の舞台の最高峰に上がった。
17日、江原道平昌郡バイアスロンセンターで開かれた2018平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピックのクロスカントリースキー男子7.5キロ座位で1位(22分28秒4)を占め、韓国選手団で唯一金メダルをもたらした韓国障害者ノルディックスキーの看板スター、シン・ウィヒョン(38・チャンソン建設)の話だ。韓国が1992年のアルベールビル大会から冬季パラリンピックに出場して以来、金メダルを獲得したのは今回が初めてだ。韓国は前大会まで銀メダル2個を獲得しただけだった。
シン・ウィヒョンは今回の冬季パラリンピックで、10日から17日まで8日間、6つの個人種目(クロスカントリースキー3、バイアスロン3)に出場し、“5転6起”の末に金メダルを獲得するという不屈の闘魂を見せた。彼は試合の後、「死ぬか気絶するかという覚悟で試合に臨んだ。ゴールまで1位を走っているということを知らずに駆け抜けた」とした。彼は大会の閉幕日の18日にもクロスカントリースキー4×2.5キロのオープンリレーにクォンサンヒョン、イ・ジョンミンと共に出場し、2.23キロをさらに駆けた。9日間で7種目にわたる63.93キロを走ったわけだ。彼のニックネームの「アイアンマン」(鉄人)は、名前だけではなかった。
シン・ウィヒョンはこれと関連して「7種目出場は自分の意志だった。練習が多いときは1日50~60キロを走ったので体力的に負担はなかった。今回も2試合に出て1日休み、負担はなかった」と述べた。彼は11日のクロスカントリースキー男子15キロ座位で銅メダルを獲得した後、他の種目でメダル圏外へと後れを取ると「必ず愛国歌を聞きたい」という燃える意志を見せ、閉幕1日前についに自分の目標を成し遂げた。
シン・ウィヒョンは金メダルを獲得した直後、「母は私が(交通)事故に遭った後、気苦労も多かった。母が亡くなるときに(心配で)目を閉じられないんじゃないかと思い、結婚もして一生懸命生きている姿も見せようとした」とし、「もう金メダルまで取ったから、残りの人生を幸せに暮らして孝行する。母さん、愛してる」と話した。彼はまた、交通事故にあった年に母の勧めで結婚したベトナム出身の妻のキム・ヒソンさん(31)を思い、「家で妻が作ってくれるキムチチゲとごはんが食べたい」と話した。
シン・ウィヒョンの挑戦は、今回の冬季パラリンピックで終わらない。彼は18日、韓国選手団の決算記者会見に出席し、今回バイアスロンで成績を出せなかったことを意識したように「射撃に専念するつもりだ。プライドを傷つけられたが、(4年後の)北京で挽回したい」と強い意欲を見せた。彼はまた来る2020年の東京パラリンピックでは「ハンドサイクル種目に挑戦したい」と話した。