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[書評]分かち合いと包容で世界を変えた“郷土のパン屋”

登録:2016-10-21 23:24 修正:2016-10-22 07:52
大田の聖心堂、60年前に蒸しパン露店として創業 
世界が認める一流ブランドに成長 
外部進出を拒否して地域住民と共生

私たちが愛したパン屋、聖心堂
キム・テフン著/南海の春の日社・1万6000ウォン

『聖心堂』キム・テフン著/南海の春の日社・1万6000ウォン//ハンギョレ新聞社

 「皆が良いと思える仕事をしてください」。「私たちは互いに愛し合いましょう。私たちは愛の文化を作り上げる。私たちは価値ある企業になる」

 このようなスローガンにも似た言葉が企業の経営理念、長期ビジョンなら、果たして実践できるだろうか? 殺伐とした新自由主義市場経済体制で、それは世間知らずの願い、あるいは偽善、はたまたまやかしではないだろうか? そんな会社があるならば、果たして生き残れるのだろうか?

 売上の内訳を全従業員に公開し、税金を100%正直に納めることを会社の最優先の徳性とする。苦しい時もリストラなどで人件費を減らす便法を拒否し、週5日勤務で、生産の3分の1以上を地域社会の弱者に寄付する。それでも上がった収益の15%は無条件にインセンティブとして職員に戻し、そのインセンティブの20%に該当する金額を世界の貧しい人のための基金として出す。

 そんな会社が生き残るだけでなく、長い間成功を重ねている。

 地域社会の若者たちが昨年、今年と連続で入りたい企業第1位に選んだという会社、同僚間の愛と配慮が人事考課の40%を占める会社。「聖心堂が見る夢は、単純に企業の生存だけに限らない。聖心堂は大田(テジョン)という地域社会、ひいては韓国社会全体の変化を指向している。軋轢よりは和合を、排除よりは包容を、競争よりは協力を、蓄積よりは分かち合いを実践して、私たちの社会を変化させたい。私の目に映る聖心堂は、一言で言えば社会プロジェクトだ。資本主義の限界を痛感している現代社会で、聖心堂は「皆のための経済」あるいは「市民経済」という新しい代案モデルを目指している」

一日の仕事を始める前、輪になってからだをほぐす聖心堂の職員たち。後に聖心堂の最高ブランドである「揚げそぼろ」ののれんが見える=南海の春の日社提供//ハンギョレ新聞社

 「皆のための経済」(EoC,Economy of Communion)の成功事例を訪ね歩く、長年の調査と現場取材を経て『私たちが愛したパン屋、聖心堂』を書いた著者キム・テフン氏が「奇跡のパン屋」と呼ぶこの聖心堂は、創業60年を迎えた大田(テジョン)のローカル企業、郷土のパン屋だ。焼いてから4時間を過ぎれば販売しないという「揚げそぼろ、パンタロンニラパン、大田ブルース餅などのブランドで、口コミとソーシャルメディアブームに乗って、今や全国的に知名度を高めている聖心堂は、ミシュランガイドグリーンにその名が上がり、大田のロッテ百貨店と大田駅に出店して、連日市民が長蛇の列を作っている。ソウルや釜山の有名デパートの招請により開いた短期「ポップアップストア」では、連続で売上記録を書き換える大成功を収め、中国からは毎年数百人の製パン業従事者が聖心堂に巡礼に来る。韓国に来たローマ法王も聖心堂のパンを食べた。

 今年5月、韓国を訪問したEoC分野の権威者ルイジーノ・ブルーニ教授が「聖心堂の哲学と経営方式が外に広がって、100の中小企業が生まれるならば、大企業中心の韓国の経済構造自体が変わるだろう」と言ったという聖心堂は、朝鮮戦争の時に咸鏡道(ハムギョンド)から来た避難民夫婦がカトリック神父からもらった小麦粉2袋で始めた蒸しパン露天商がその起源だった。

 咸興(ハムフン)からほど近い咸州(ハムジュ)でリンゴ園を営んでいた農夫イム・ギルスンは1950年年末、中国軍に押し戻された連合軍の全面後退の時「風が冷たい興南(フンナム)埠頭」から1万4500人余りの避難民を乗せて出航したメロディスビクトリー号(ギネスブックに「一度で最も多くの人命を救助した事例」として記録された)で妻と4人の娘と共に多くの辛酸と苦難の末に乗った。その瞬間、イム・ギルスンは「生涯を苦しむ隣人を助けて生きる」と誓った。

 以後、巨済島(コジェド)と鎮海(チネ)を経て運転を再開した鉄道「統一号」に乗ってソウルに向かった彼の家族は、汽車が故障して停まった大田に降り立ち、蒸しパンの露天商を始めた。カトリック信者でパンを作っこともなかった彼らが、大田駅前にテントを一張り立てて「聖心堂」という看板を掛けて始めた露天商は、それなりに商売がうまくいき、イム・ギルスンは、一日に蒸しパン300個を作れば100個は腹を空かせた人々に分け与えた。その分かち合いの伝統は、息子の代にも受け継がれた。危機の時に事業を引き継いだ二代目のイム・ヨンジンが開発した「揚げそぼろパン」が大ヒットして転機を迎えた聖心堂は、イム・ヨンジンが1983年に結婚した美術専攻のキム・ミジンのアートマーケティング技法のおかげで一層繁盛し、大田で一番のブランドになった。

 だが、アパート建築ブームの中で聖心堂があった大田都心が相対的にさびれ、所得増大と開放にともなうパン消費文化の変化、フランチャイズなどを通した大資本の進出のために事業戦略をめぐる兄弟間の意見対立などで危機を迎え、2005年には工場火災まで重なって絶望的な状態に陥った。ところが、その絶望がむしろ今の聖心堂を作る転機になった。危機の中で聖心堂が自分たちと生死苦楽を共にする「一つの運命共同体」「一つの家族」であることを自覚した職員たちは一丸となって短期間に工場を復旧し、売上は以前を上回った。

 その後にも幾多の屈曲はあったが、聖心堂は大田市民が自負心を感じるほどの郷土企業であり、世界が認める大韓民国最高ブランドの一つとなった。聖心堂の成功は、この運命共同体意識を内部のみならず大田という地域社会にまで拡張し、利益を地域住民と共に分けるという戦略、そして同業者やフランチャイズ資本と競争して時流を追いかけて行けば生き残れないという反省、聖心堂本来の姿に立ち返らなければならないという悟りがその土台になった。

 「聖心堂は貧しい人々が臆するようなみせであってはならない、また同時に裕福な人々にもみすぼらしく感じられてはならない。聖心堂は、顧客を満足させる売場環境はもちろん、職員にも共に満足できる勤務環境を作らなければならない。聖心堂は年配の方に身近であると同時に、若者たちにも洗練された空間を提供しなければならない」。そして聖心堂はもはや大企業と競争し最先端システムのベーカリーを追求するパン屋ではなかった。「聖心堂は素朴な材料でも香ばしい味噌(テンジャン)チゲをてきぱきと作って出す母親のような存在でなければならなかった。もしかして足りないかと思って、一匙分でも多くよそって入れる母親の気持ちでアプローチしなければならなかった。パンの大きさも小さくなる一方のトレンドを一時は追ったが、そうした時流を正面から拒否して再び大きくした。

 成功を収めた後、出店してほしいと言ってきたソウルのロッテ百貨店の要請を断った聖心堂の「パンマダム」キム・ミジン氏は話す。

 「大田を離れてソウルに店を開いた聖心堂を、果たして聖心堂と呼べますか? もちろん、ソウルではお金は今よりはるかに多く稼げるだろうが、その代わり私たちの本質も失いかねないと判断しました。大田の人々が他所から来たお客さんに聖心堂を紹介し、パンを贈り、大田には聖心堂という歴史あるローカル企業があるということに自負心を感じる姿を見て、大田に来てこそ出会えるパン屋としてその価値を守りたいと思ったのです」

 聖心堂のこのような考えは、カトリック教会の社会運動である「フォコラーレ(Focolare)運動」とそこから始まった「皆のための経済」(EoC)と相通じる。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたことは、すなわち、わたしにしたことである」(マタイ第25章40節)という精神により、すべての人類が兄弟愛を基に相互に尊重し一致を成し遂げるようというフォコラーレ運動の理念は、「資本主義の核心を変えるためには企業が変わらなければならず、その企業を運営する企業家の考えが変わらなければならない」という信頼を土台にしたEoCの中に具体化されている。

 聖心堂はこれを実践に移し、驚くべき成功を収めた。それは内部構成員を変え、地域社会と世界まで変えている。

ハン・スンドン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/766704.html 韓国語原文入力:2016-10-21 09:14
訳J.S(3607字)

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