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韓国史と韓国人を愛した日本古代史学の巨匠

登録:2016-03-15 03:22 修正:2016-03-15 07:12
他界した上田正昭・京都大学名誉教授
晩年の上田正昭教授=チェ・ソンイル博士(美術史)提供//ハンギョレ新聞社

 昨年公開されたドキュメンタリー映画『鄭詔文(チョンジョムン)の白い壺』(監督ファン・チョミン)をみると、日本にある朝鮮半島の文化財を集め、1988年に京都に高麗美術館を建設した在日同胞事業家の鄭詔文氏(1918〜89)を助ける日本の歴史学者がしばしば登場する。映画の推進委員長である上田正昭・京都大学名誉教授だ。今月13日午前、京都亀岡の自宅で、享年89歳で他界した彼は、韓日知識人たちとの交遊の中で古代韓日交流史研究の新しい時代を開いた先駆者だった。

 上田氏は鄭詔文氏や、作家の司馬遼太郎氏などと共に、1969から1981年まで季刊『日本の中の朝鮮文化』を発行した主役として、日本各地の朝鮮半島渡来人遺跡の踏査の案内役を務めた。彼は打ち上げで歌を歌いながら、鉦を鳴らすこともあった。

 上田氏は、国家主義史観の影響が強かった強かった近代日本古代史学界に、東アジア交流史の観点から言語学、民俗学など、様々な方法論を駆使して日本史を再構成する「上田史学」で新風を巻き起こした。鄭詔文氏や金達寿(キムダルス)氏、李進熙(イジンヒ)氏など、在日同胞知識人たちと1960年代から交遊しながら、古代日本に渡った朝鮮半島の人々の足跡を発見することにも心血を注いだ。1965年に出した名著『帰化人』で、「帰化人」という差別的用語で分類されていた古代朝鮮半島人の名称は、国籍概念がなく、朝鮮半島からの先進文化の輸入に積極的だった古代日本の実情と合わないとして、「渡来人」という新しい概念を提案した。その後、「渡来人」が公式用語に確立され、教科書の記述まで修正される成果を収めた。

1970年代、日本国内の朝鮮半島渡来人の遺跡を発見した踏査現場で、上田教授(右)が説明している。彼の左側に立っているのは在日同胞の鄭詔文氏=京都高麗美術館提供//ハンギョレ新聞社

 1927年、兵庫県で生まれた彼は、中学時代、当時の歴史学界の巨匠だった津田左右吉の研究書を読み、本格的な歴史書とされていた『古事記』や『日本書紀』に事実自体があまりないことにショックを受けた。太平洋戦争当時、学徒兵として東京造船所で働いていた時、空襲で友達を失ったことを契機に、多くの民衆の犠牲を強要する天皇制の実体と古代日本の成立過程に対する懐疑から、京都大学に入って古代史の研究を始めた。

 1963年、京都大学教授になった彼は、日本の古代王権が渡来人によって九州から中部関西に広がっていったという王朝移動説と、日本の古代王朝の基礎を築いた6世紀の敏達天皇は百済貴族であり、京都に遷都して平安王朝を建てた桓武天皇の生母は、百済武寧王の子孫であるという事実などを、『新撰姓氏錄』などの実証史料を基に明らかにし、波紋を呼んだ。 4世紀の百済王室が倭王に贈った刀の「七支刀」が、文献において明らかに下賜に当たると分析したのも、韓日交流史研究に重要な足がかりとなった。 2008年、天皇の招待を受けて、明仁皇と百済から日本への仏教の伝播や交流史に関する会話も交わしたこともある彼は、任那日本府説を信奉する極右勢力から、数回に渡り脅迫の手紙を送られた。

 「朝鮮学校を支える会」の発起人を務めるなど、韓日知識人の歴史連帯と社会的実践にも熱心だった。昨年末に発表した『古代日本と東アジアの新研究』まで、81冊の著作を出し、共著は500冊を超えた。

ノ・ヒョンソク記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-03-14 19:15

https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/734860.html 訳H.J

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