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‘韓国考古学の開拓者’日本学者の生涯を回顧する

記事登録:2012/03/05 16:30(1708字)

←1934年 青年時代の有光教一

有光教一 特別展
日本 京都 高麗美術館で開催

"オーッ手が震える!"
 1946年5月14日、慶北(キョンブク)、慶州(キョンジュ)邑、路西里(ノソリ)のある新羅古墳発掘現場で感激の声が漏れ出た。

 積石墓の中から高句麗広開土王の乙卯年(415年推定)銘文が底に彫られた青銅器‘ホウ(壺,木+迂のつくり)’を土中から持ち上げた瞬間、39才の日本人考古学者はぶるぶると震えた。 韓国考古学の最初の出発を知らせた歴史的発掘の主役になったという喜びに、敗戦後、捕虜のように捕まって仕事をする複雑で息苦しい感慨が絡まって彼の頭の中をかすめて行った。 彼が発掘した墓は‘ホウ塚’で名付けられた。

 昨年103才で他界した日本考古学の大家、有光教一(1907~2011)の青年時期は慶州ホウ塚との劇的な縁で一線を画すことになる。彼は韓日両国の学界で朝鮮(韓国)考古学の先覚者として賞賛を受ける。 1931年、朝鮮古跡研究会助手として初めて日本から慶州に渡ってきて韓半島各地の古代遺跡を調査し、1941~1945年には朝鮮総督府博物館主任を務め解放をむかえた。 キム・ジェウォン初代国立博物館長は当時、博物館所蔵品と考古発掘の唯一の専門家であった彼の帰国を阻み発掘を提案した。 米軍政庁文教部顧問として残留を命令された有光はキム館長に普段から目をつけていた路西里140号古墳を推薦した。 国立博物館の初めての発掘はそのようにして大当たりとなった。キム・ジェウォンは後日、自叙伝で発掘後米軍ジープに彼を乗せて釜山埠頭まで見送った記憶を想い浮かべ「最も真実の親韓派」と回顧した。

←1946年当時、有光が参加した慶州ホウ塚発掘現場と調査団員の様子

 日本に帰った後にも京都大教授として生涯朝鮮考古学研究に情熱を燃やした老学 有光を追憶する回顧展が開かれる。 国外唯一の韓国文化財専門コレクション・展示場である日本京都の高麗美術館で4月1日に開幕する特別展‘朝鮮考古学のパイオニア-有光教一’だ。 5部に分かれた展示は有光が京都帝国大学を出て朝鮮で調査活動を行った日帝強制占領期間と、解放後に慶州ホウ塚・銀鈴塚の発掘時期を先に解いていく。 続けて朝鮮から帰ってきて6余年ぶりに平壌(ピョンヤン)遺跡調査報告書を出すなど、日本でより一層旺盛に繰り広げられた故人の朝鮮遺跡研究業績とキム・ジェウォンなど韓国の知人たちと高麗美術館を建てた在日同胞の故 鄭詔文(チョン・ジョムン)との縁等を含んだ資料を見ることになる。 美術館側は「未公開の解放前後における故人の朝鮮古跡調査の面々を見せる写真、図面など貴重な考古学的資料を相当数出品する予定」と明らかにしている。

 有光が韓国古代遺跡発掘研究に残した陰は広く濃い。釜山、ヨンソン洞の新石器時代の貝塚、平壌の高句麗壁画墓、百済の武寧王陵発掘の前兆を知らせた公州、松山里(ソンサンニ)29号墳、全南(チョンナム)羅州(ナジュ)潘南面(パンナムミョン)の馬韓甕棺墓、慶州藍泉地区の甲塚,乙塚…。 後代韓国考古学者たちはこの地の随所に残された彼の足跡を避けることができない。 朝鮮総督府最後の博物館長として1945年12月3日韓国国立博物館の開館も見守った彼は草創期の韓国考古学史の証人であり番人だった。 展示に出てくる回顧録で、有光は朝鮮残留を命じられた1945年12月31日の夜、ソウルの空を見上げてこのように書いた。「奇妙な運命だとしか言えない…大晦日の夜空を見上げれば、満天の星は地上の騒動や個人の感傷にはまるで関係なくきらきらと美しく光っている。」 6月3日まで。 www.koryomuseum.or.jp

文ノ・ヒョンソク記者 nuge@hani.co.kr,写真提供 高麗美術館

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/music/521999.html 訳J.S