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[書評]イアン・ブルマの零年 「慰安婦拉致の企画者は岡村寧次司令官」

登録:2016-01-29 00:51 修正:2016-01-30 07:36
アジア研究者のイアン・ブルマ 
現代の出発点である1945年を再構成 
多様な個人資料を多彩に引用
ドゴール治下の戦犯裁判で陳述する親独ヴィシー政権の長官歴任者ピエール・ラヴェル。銃殺刑に処された。右下はヴィシー政権の首班ペタンで、当時89歳の高齢だった彼は無期刑を受け大西洋の島の監獄で服役し1951年に死んだ =クルハンアリ提供//ハンギョレ新聞社
『0年』(日本では『廃墟の零年』)-現代の誕生、1945年の世界史 イアン・ブルマ著、シン・ボヨン訳 資料写真//ハンギョレ新聞社

『0年』(日本では『廃墟の零年』)
-現代の誕生、1945年の世界史
イアン・ブルマ著、シン・ボヨン訳
クルハンアリ・2万3000ウォン

 1937年、中国大陸に対する侵略を本格化した日本軍が、南京で少なくとも数万、多くて数十万人に及ぶ中国人を虐殺したその翌年、支那(中国)派遣軍総司令官だった岡村寧次(1884~1966)指揮下の日本軍は、化学兵器で再び大規模な殺戮戦を敢行した。岡村は後に三光作戦(殺しつくす・焼きつくす・奪いつくす)と呼ばれることになる焦土化政策で200万人を超える中国民間人を死に追い込んだ。 その時、日本陸軍が慰安所を設置し「組織的に若い女性たちを主に韓国で拉致し、日本軍の性的奴隷として働かせるようにした」が、この犯罪行為を提案した人物が岡村だったとニューヨークにあるバード大学のイアン・ブルマ教授は『0年』(Year Zero、2013年刊)に書いた。

 ジョージ・ワシントン大のロナルド・スペクター教授の『帝国の崩壊』(In the Ruins of Empire、2007)を引用した『0年』の岡村に関する記述は次の通り続く。

 1945年8月の日本の敗戦後、岡村はその年の9月9日に蒋介石の国民党政府の陸空軍総司令だった何應欽将軍(1890~1987)に無条件降伏し、共産党と勢力争いをした国民党に力を与えた。何應欽将軍はその時、敗将岡村に「屈辱を与えるやり方で不名誉を体験させた」と逆に謝った。 東京の日本陸軍参謀本部所属の軍事学校に留学し、岡村の下で軍事訓練を受けた何應欽将軍は岡村を「センセイ」と呼んだ。 そのためか、岡村は降服した後にも占拠していた南京の外務部の建物をそのまま使っていた。 その3年後、戦犯として起訴されても蒋介石側は彼が侮辱を受けないよう配慮し、さらには彼を国民党政府の軍事顧問にむかえた。 この兇暴な戦争犯罪者は結局、戦犯裁判で無罪となり無事に帰国した後、1966年に自宅のベッドの上で平和に息をひきとった。

 加害国と被害国の当時の実力者の談合、これに目を瞑った連合国戦犯裁判。 日本軍「慰安婦」問題の解決が容易でない理由のもう一つの面をここにも確認できる。 イアン・ブルマは日本の敗戦直後に新義州(シンウィジュ)の対岸にある中国の安東(現在の丹東)に避難していた7万人の日本人の民間指導者が当時すぐにも押し寄せてくると予想されたロシア軍の“横暴”を遮断するため、「キャバレー」という事実上の売春街を作り、「日本のために自らからだを犠牲にしなさい」と言って日本人女性を募集した話も書いた。 この先頭に立った人は「安寧旅館」を営んでいた日本の温泉芸者出身のオーマチという40代序盤の女性で、後に鴨緑江(アムノッカン)周辺で中国共産党の手で処刑された。 日本のこの“女性版神風”の話を著者は岡田和裕の『満州安寧飯店』(2002)、藤原作弥の『満州、小国民の戦記』から引用する。

 「日本のやつらの支配を40年間受け強い影響を受けた、教育がまともにされていない東洋人(中略)彼ら(韓国人)と話すのは疲れる」

 こう話したのは、日本の敗戦直後に韓国を占領した米軍のホッジ中将だ。 韓国に対して無知だったが、朝鮮半島から最も近い沖縄にいたという理由で韓国占領軍司令官として派遣されたホッジは、当時建国準備委員会と人民共和国を主導した呂運亨(ヨウニョン)の弟である呂運弘(ヨウノン)の面談要請を「日本人か共産主義者の仕掛けた罠と疑って」拒否し、それまでの日本の行政組織をそのままにして稼動させる意を公表する。 これが韓国を占領した米国が犯した「最初の失敗」だったとイアン・ブルマは指摘する。

 米軍はその頃、フィリピンでも同じ「失敗」(?)を犯す。 日本軍の侵略で退却したが再びフィリピンを占領したダグラス・マッカーサー元帥は、日本軍およびフィリピンのエリート地主階級と戦って米軍のフィリピン再奪還に大きく寄与した抗日人民軍「フクバラハップ」を裏切って地主の肩を持つ。 スタンリー・カーノウの『フィリピンのアメリカ帝国』(1989)を引用したイアン・ブルマは、アキノとラウレルなど大地主階層の支配下で停滞を免れなくなっている現代フィリピンの原形がその時に作られたということを示す。

 こうしたことは全て1945年に起きたという共通点を持っている。 著者はこれらの話を実証的史料だけでなく参戦兵士と一般人の証言、女性たちの経験記、各国の作家の小説など文学作品、日記、回顧録などを多彩に引用する。

 これを通じて彼は第2次大戦以後に再編され今日に至る現代世界を作った出発点である0年、すなわち1945年の状況を確認しようと考える。 「人間の歴史で最も破壊的な戦争が起きた直後に、どんなことがあったのか? 世界はどのように残骸の中から再び立ち上がることができたのだろうか? どのように社会または文明を再建できたのだろうか?」。著者は過去の歴史の教訓に対する大きな期待はないとしながらも、「過去を知らなければ我々の時代自体を理解できない」と話す。

 オランダ生まれで中国文学、歴史、日本映画などを専攻し、香港の英字紙ファーイースタン・エコノミック・レビューの文化担当編集者などを務めたアジア専門研究者であり、ジャーナリストでもあるイアン・ブルマがこの本で扱っているのはアジアだけではない。 ここでは主に我々の現実と深い関連を持つ東アジアの話を引用したが、終戦直後の状況を歓呼、飢餓、復讐、帰郷、毒素除去など多様な主題に分けて分析する対象は世界全体だ。 終末収容所の生存ユダヤ人が解放された後にも故郷の地で歓迎されず、むしろ迫害される状況とその社会的・心理的背景を指摘する文などは、事実(ファクト)自体は新しいものではないかも知れないが、多様な個人資料を豊富に引用したこの本を通じて改めて迫ってくる。

ハン・スンドン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/728408.html 韓国語原文入力:2016-01-28 20:22
訳J.S(2821字)

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