原文入力:2009-06-17午後09:22:32
escウォーキングマップ8.群山(クンサン)近代文化遺産路地 一回り
近代文化遺産の宝庫 群山,内港 浮き桟橋から永和洞(ヨンファドン)を過ぎ百年広場まで 6km
(*)ヨンファ:韓国語では映画・栄華・永和は全て同じヨンファと発音する(訳者注)
イ・ビョンハク記者
←日帝時代に作られた浮き桟橋がある群山内港の姿.
群山は近代文化遺産の倉庫だ。仁川・木浦と共に近代旧都心の暮らしの跡が生き生きと残っている希少な都市だ。錦江の河口だ。朝鮮3大市場の一つであった江景に出入りする町角であり、西海沿岸の要衝地であった。群山港は1899年に開港した。ここを通じて日帝は全北穀倉地帯の米を日本に積み出した。月明洞(ウォルミョンドン)・永和洞・内港周辺,開井面(ケジョンミョン)・大野面(テヤミョン)一帯に日帝収奪の跡がはっきり残っている。日本の臭いが漂う旧都心路地循環コースを歩く。
日帝強制支配期には人口の半分が日本人
←栄和市場は10余年前までは人波で混みあっていた。ひんやりとした市場路地に座り豆を商う年配の人々.
内港浮き桟橋そばの観光案内所①から出発する。観光案内地図を手にしてから先に内港を見物する。内港は旧群山鎭があった所で、群山産業団地側の外港と区分される。日帝が肥沃な全北平野で獲れた米をここに集めて搬出した物流基地であった。その跡が内港周辺を横に伸び斜めに伸びた鉄道と水が抜ける時でも船を停められるようにした浮き桟橋②だ。観光案内所そばには軍艦と戦闘機を展示した海洋テーマ公園もある。
1999年に作った開港100周年記念百年広場③へ行く。海望路(ヘマンノ)内港交差点横だ。広場に立てられた12ヶの石柱が多少突飛だ。広場そばには古くて暗くじめじめした大型建物が今にも崩れ落ちそうに立っている。1923年に建てられた朝鮮銀行建物④(登録文化財)だ。当時は群山最大の建物だというが、今は骨組みだけが残ったがらんどうの躯体がかろうじて立っている。遊興店舗の古びた看板が不規則に穴のあいた外壁を通じて80年余りの栄光と恥辱の歳月をそっくり垣間見せている。復元工事中だ。
海望路は日帝時代の商業中心街であるいわゆる本町通りだ。官庁・銀行・商店が並んでいた。海望路の向かい側の東嶺峠に上る。峠入口の右側に57年経つという中華料理店濱海園⑤がある。食堂内部が開けた2階構造の中国式建物だ。東嶺峠は日帝時代に華僑がたくさん住んでいた所だった。峠を越えて榮洞交差点でファッション街である榮洞の町に入る。平屋の建物が続く路地だが、ないブランドがないという旧都心ファッション1番地だ。
門を閉ざしたククド劇場前をすぎる。日帝時代から喜笑館という劇場があった所だ。劇場前の右側路地は ‘芸術通り’⑥が造成されている。まだ少し寒々しいが長さ150mほどの路地のあちこちに現在画家7人,文人2人と音楽家・写真家・デザイナーらが画室・喫茶店・作業室などを作り営業している。2002年1月に起きたいわゆる売春業者火災で13人が命を失った開福洞(ケボクドン)路地だ。 ‘開福洞芸術通り造成委員会’ イ・サンフン(39)委員長は「少しずつ文化芸術通りに変化する気配が見える」として「8月から火災事件と関連した追慕イメージ作業・展示会など ‘花娘プロジェクト’ をお披露目する予定」と話した。
←コンナムルコゲ(もやし峠)路地の壁につけられている住所表紙.
路地を出てコンナムルコゲ⑦に上がる。チェ・マンシクの小説<濁流>の背景の1つだ。財産をみな売り飛ばし昌城洞(チャンソンドン)峠の上のトゥンベミのわらぶきの家に引越ししたチョン主事が上り下りした道だ。コンナムルコゲという名前は昔、周辺住民たちが家で育てたもやしを持ち出しては売ったところに由来するという。峠の中間の住公アパート団地の横道を上がれば先陽高架橋に達する。日帝時代に山の連なりを切り三鶴洞~明山洞をつなぐ道をつけた。いわゆる ‘山の切れた所’ だ。切れた部分に高架橋をかけて再び繋いだ。橋の上に<濁流>の舞台であることを知らせる碑石⑧がある。
←日本式寺刹 東国寺内の鐘閣と石造物
114階段を降りてきて明山洞交差点を過ぎ左側の最初の路地に入れば、日本式寺刹 東国寺⑨(旧錦江寺・登録文化財)がある。1909年日本人らが建てた寺だ。境内庭園も鐘閣も石造物らも日本式だ。群山市庁学芸研究士キム・チュンギュ(43)氏は「1910年代、群山住民の半分以上が日本人(8000人余り)だった」として「彼らが建てた6ヶの寺の内、東国寺だけが昔の面影そのままに残っている」と話した。法堂内に、祀った仏像は泥で作ったが、光復の後に金山寺から移してきたものだ。
再び大通りを左に上がれば今は食堂になっている1930年代群山府尹官舎⑩に着く。当時の市長官舎であったこの建物は最近食堂にするため内外を改造し外見だけは当時の形態のまま残すことになった。群山女子高そばの路地内の廣津家屋⑪(登録文化財・韓国製粉官舎)は内外が昔の面影を保っている。周辺路地は日帝時代に富豪たちが暮らした住宅街だったという。当時の反物商,廣津が建築した典型的な日本式家屋だ。映画<将軍の息子>の撮影地だ。ここから路地を曲がる度に塀や庭園・木造家屋など昔の面影を大事に保った日本式住居が見られる。
←日帝が貫通させた海望窟(ヘマングル)
月明山の山裾,海望窟へ足を移す。群山西小学校を過ぎれば興天寺横に開けられた海望窟⑫(登録文化財)が出てくる。1926年日帝が中央路と海望洞をつなぐために貫通させた高さ4.5m,長さ131mのトンネルだ。トンネルを通過して海望洞側の通りに出ると古い看板を掲げたいくつかの店が60~70年代の町の風景を思い出させる。ヨンジャ美容院もスクモリバンもクル茶房も門が閉められた。海望窟入口から興天寺横道に上がれば西海岸と錦江河口,川の向こう側の長項一帯がひと目で見下ろせる守市塔⑬に達する。 ‘群山を守る’という気持ちを込めて1968年に建てられた塔だ。
海望窟から下ってクヨン3道に入り、永和洞市場に行く。80年代まで栄華を誇った常設市場だ。近隣米軍部隊の軍人らもここの酒場にきて賑わった。日本人に続き米軍が集まり込み合ったこの地域はもう市庁・裁判所・検察庁も新市街地に移り、アメリカタウンも移って少し寒々としていた。市場入り口で50年間店を守ってきたテウ商会主人コ・チャンフン(77)氏が話した。「今はみな滅びちまったね。ここは老人ばかりだから。対策も支援もなくて死ね死ねと言ってますよ。」
←蔵米洞(チャンミドン)の旧群山税関
海望路に再び出る。道を渡れば昔の面影を大切に保っている端正なレンガ造りの建物、群山税関⑭(登録文化財)が見える。1908年大韓帝国が作った洋式単層建物だ。今は内港と税金関連写真や資料を展示する湖南関税展示館として使われている。税関後方にはスドク山があり、スドク山には群山鎮城(土城)があった。日帝が内港を建設する時、スドク山の山裾を削り海を埋めたという。
近代産業遺産テーマ団地造成中
長崎18銀行建物⑮は1907年に建てられた洋式建築だ。日帝時代に資本収奪の先頭に立ったこの銀行の建物は最近まで大韓通運の建物として使われ一時取り壊しの危機に瀕したが、登録文化財と認定されきれいに装いを新たにした。群山市では群山税関周辺から朝鮮銀行に達する蔵米洞一帯の土地と建物を買い入れ近代産業遺産テーマ団地を造成中だ。博物館も作り既存建物を復元して文化芸術家創作空間として活用する計画という。蔵米洞という名前は花から来たものではない。日帝がここに米を集積したことに由来する蔵米洞だ。
ここから路地をもう一つ行けば出発した百年広場だ。12ヶの石柱を再び見ると、日本式でもなく韓国式でもなく、より一層突飛に見える。 6km余り歩いた。
←地図 グラフィック デザイン モッジッ
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ウォーキング メッセージ
西海岸高速道路群山出入り口から出て行けば、まもなく観光案内所に出会う。群山観光案内図と近代文化遺産探訪地図などを得ることができる。27号国道に乗って市内に入り、表示板に従って内港に行く。内港に駐車場が用意されている。明山交差点にコンナムルクッパ(モヤシスープご飯)屋路地がある。イルヘオク(063-443-0999)等にお客が集まる。旧朝鮮銀行前の中華料理店、濱海園(063-445-2429)は華僑が運営する57年伝統の食堂だ。月明洞YMCA(旧裁判所)前の喫茶店マリアンヌ(063-445-0519)は直接とった材料で梅茶・五味子茶・覆盆子茶など、すっきりした茶を出す。群山市庁観光振興課に連絡すれば毎週土・日曜日に運行する無料群山シティツアーバスも利用することができる。 観光振興課(063)450-6110.
群山=文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr