“天宮往来”三国遺事の一節に注目
「超越的存在のために作った」と主張
湧水の上に建設・東向設計などを挙げ
「人間ための建築原理ではない」
8世紀の新羅の貴族 金大城(キム・デソン)が作ったとされる慶州(キョンジュ)吐含山(トハムサン)の石窟庵(ソクラム)(石仏寺)は歴史上類例のない独創的建築物だ。 20世紀初頭に日本人により再発見され、以来100年にわたり歴史学と美術史、建築学、自然科学など種々の分野で莫大な研究成果が出されたことは当然の帰結だった。 石窟の原型と思想的背景に関して多様な学説と木造前室の有無やドームの仕組みや起源などを巡る論議も度重なり、石窟庵談論は豊富だった。 しかし根本的な疑問は解けなかった。 花崗岩でドームの天井に円形堂を作った石窟の建築的性格は何か、なぜ吐含山頂の周囲に造ったのかなどに対して今でも分かっていないことが多い。
石窟庵の建築的実体を探求してきたナム・ドンシン ソウル大学国史学科教授が、最近注目に値する新学説を出した。 学術誌『美術史と視覚文化』13号に掲載された「天宮としての石窟庵」という論考と11月に開かれた韓国建築歴史学会学術大会招請講演で、彼は石窟庵は天上の超越的存在(天人)のために作られた天宮という見解を提起した。
ナム教授は「石仏社で初めて住職を務めた僧侶ピョ・フンが、吐含山の下にある仏国寺(プルグクサ)に留まり、常に天宮を往来した」という『三国遺事』の一節に注目した。 この天宮は仏教神帝釈天が留まる天上世界であるトウ利天(三十三天)にある神々の居所であり、金大城が創建した石仏社を指すという推論だ。三国遺事の記録のとおり、金大城が母親の冥福を祈るために吐含山頂の東側に石窟を作ったのは、トウ利天宮で釈迦が生母摩耶夫人のために説法する場面の再現だということだ。 石仏社が修行と信仰の空間である前に、釈迦が親しく説法する神の空間を象徴したということが彼の論旨だ。
こういう天宮説を土台にして、ナム教授は石窟庵の建築的特徴を新たに解説する。 なぜ石窟が山の頂上から東側を見て造られたのだろうか。 通常の建築物と異なり、湧水が湧く地盤の上に作った理由は何だろうか。 なぜ東海の湿った海風が吹き付ける険しい山中に丈夫な花崗岩でドーム型円形堂様式を構築したのだろうか。 彼の考えでは金大城は名実共に天宮を作ろうと思った。 天宮は天神のための空間という点で、立地条件や構造、材質などに完ぺきな創意性を要求されざるをえないということだ。
佛陀伽耶の摩訶菩提寺、サールナートの初転法輪地など、インド仏教の聖地の主要寺院とジャイナ教寺院は大概東方を眺めて建てられた。 ナム教授はこのような前例から石窟庵の立地が古代インド寺院の東向伝統を継承したと分析した。 また、湧水の上に建物を建てるのは、建築史的に人間のための建築の基本原理に反するが、神々の居所と理解すれば納得できる。 古代ギリシャはデルフォイのアポロ神殿や、中国先秦時代の霊廟である晋祠、ソウル北漢山(プッカンサン)の僧伽窟のように湧水や井戸と結合した宗教建築事例は多い。 ナム教授はこのような脈絡で、石窟庵本尊像の後の十一面観音像の前にあったが無くなった石造祭壇を湧水と関連した仏教儀礼の痕跡とした。
全体を石で築造した革命的発想もまた天宮概念により説明が可能だ。ナム教授の考えでは金大城は天宮としての石仏社の性格を最もよく表現する材料は燃えず腐らない石だと確信した。 このような宗教的信念があったために花崗岩の制約を乗り越えて石窟を実現できたという解釈だ。 石窟庵をトウ利天天宮として作ったとすれば、教理上から石窟は吐含山頂上(745メートル)にあることこそが正しい。 しかし、石窟全体を石で作らなければならないという要求を考慮すれば、土山である吐含山頂で望む大きさの花崗岩を調達することはできない。 石窟庵で最大の石材である本尊像の場合、3~4倍の大きさの原石の重さは100トンを超えただろう。 それでも石材運送ゆえに山の麓に造るならば、天宮の要件である山頂部をあきらめなければならない。山頂の立地と石材調達という交錯する条件を共に充足する最適な場所はどこであろうか。 苦悩の末に金大城が捜し出したところがまさに海抜565メートルの現在の石窟庵の場所だとナム教授は主張する。