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[記者手帳]日本に奪われた文化財なら盗んでもかまわない?

登録:2014-11-28 21:40 修正:2014-11-29 06:44
相当数の韓国人「我々の遺物を取り戻して来たまで」
日本人「略奪物ではない…文化財窃盗事件」
専門家「韓国政府が公式に乗り出すべき」
日本、対馬の寺刹である梅林寺が所蔵している統一新羅期の仏像。 梅林寺の住職である春田勇禅がこの仏像について説明している。今月24日、韓国人がこの仏像をこっそりと韓国に持ち帰ろうとしたが摘発された。//ハンギョレ新聞社

 2012年10月に続き、今月24日に再び日本の対馬の寺刹で、韓国人による仏像盗難事件が起きました。今回の事件は、仏像を盗んだ韓国人が対馬を抜け出す前に現地の警察に逮捕されて終わりましたが、この事件を見る韓国と日本の国民の見解には途方もない差があります。

 相当数の韓国人は、倭寇に略奪された韓国の遺物を取り戻そうとしたまでだと解釈している反面、日本人たちは文化財窃盗事件と認識しています。 今月24日に起きた対馬の寺刹、梅林寺の仏像盗難事件を見る私の心も複雑です。 筆者が今回盗難に遭った仏像の存在事実を韓国内に知らせた一人であるからです。

 梅林寺の遺物を取材して報道したのは2008年の夏でした。 対馬にある朝鮮半島遺物を総合的に取材しましたが、梅林寺は重要な取材先でした。 梅林寺は日本初の寺刹として知られています。

 百済聖明王は552年に怒利斯致契(ノリサチゲ)に命じて、日本に仏教を伝播させました。 怒利斯致契一行は仏像と経典を持ち日本に行く途中、対馬にしばらく留まりましたが、当時対馬では臨時の建物を作り、仏像と経典を大切に迎えました。以後、対馬では臨時建物の址に新たに建物を作りました。これが日本最初の寺刹です。梅林寺という名前は後代に付けられたもので、初めて寺刹を作った時の名前は分かっていません。

日本、対馬の寺刹である梅林寺のかつての表札板。 1600年代中盤に製作されたもので「朝鮮国 貝谷」という人が書いたと記されている。//ハンギョレ新聞社

 怒利斯致契一行が対馬に留まった年代については、多少論議があります。梅林寺側は韓国側の記録より14年前の538年に怒利斯致契が対馬を経て日本に行ったと主張しています。

対馬の寺刹である梅林寺が所蔵している高麗時代のモンゴル兵士の木像。//ハンギョレ新聞社

 梅林寺は1400年代中ごろから1800年代後半まで全盛期を享受しました。古くから朝鮮半島と日本を行き来する船舶は対馬にしばらく留まって、水と食糧を補充しました。朝鮮時代には日本の船舶が朝鮮に入ってくるには対馬島主が発行した通行証を持っていなければなりませんでした。対馬島主家である宗一族は、通行証の印章を梅林寺に保管しておき、通行証の発行権まで梅林寺に委任しました。 梅林寺が日本全体で最も由緒深い寺刹であることに加え、船舶の通行路である小船越の近隣にあったためです。

 当時、梅林寺の威勢は絶大だったといいます。別の見方をすれば、梅林寺に貴重な遺物が大量所蔵されているのは当然のことといえます。

 梅林寺には朝鮮半島から渡来した遺物が数点ありますが、このうち最も貴重なものが今回盗難に遭った仏像です。 この仏像は統一新羅後期である9世紀に、銅で作られた仏像です。木製の受け台の上に、赤ん坊の釈迦が立っていますが、仏像の高さは10.6センチ、受け台まで含めれば12.2センチです。 今生まれたばかりの釈迦が、右手は空を、左手は大地を指して「天上天下唯我独尊」と言う姿を表現したものであり、「誕生仏」と呼ばれています。 釈迦の胸には卍の字が彫られています。

 梅林寺の住職である春田勇禅(58)は「高麗時代、高麗から日本に仏像など貴重な物を載せて行った船が対馬近海で沈没した。 当時の対馬住民たちが海に沈んだ物を収拾し、日本に再び送ろうとしたが、日本の朝廷は『釈迦を戴いた船舶がそちらで沈んだということは、釈迦が対馬に留まるという意味だ。 釈迦を対馬で大切にしなさい』と命じた。 そこで誕生仏を梅林寺にお迎えすることになったと伝えられていう。 30億ウォン(約3億円)で誕生仏を買うと言った韓国人もいた」と説明します。

 決して朝鮮半島から略奪した遺物ではないという意味です。春田勇禅住職は誕生仏と共に収拾した遺物としてモンゴル兵士の木像も見せてくれました。梅林寺には1600年代中盤、日本高官が寄贈した梅林寺のかつての表札板が残っているが、この表札板の文は「朝鮮国貝谷(ペゴク)」が書いたものです。 貝谷が正確に誰なのかは分かっていませんが、貝谷という号を使う朝鮮の学者だと推定されます。梅林寺にはこの他にも朝鮮半島から渡ってきたことが確実な遺物が色々ありますが、これらの遺物について春田勇禅住職は梅林寺にいつどのようにして来ることになったのかは分からないと言います。

対馬の寺刹である円通寺が所蔵している高麗金銅薬師如来座像。円通寺はこの仏像を本尊仏として祀っているが、仏像の全身に火で焦げた跡が残っている。//ハンギョレ新聞社

 対馬の寺刹と神社は梅林寺のように朝鮮半島から渡ってきた遺物を所蔵していることは極めて一般的にあることです。対馬にある寺刹には、朝鮮半島から渡ってきた遺物を1、2点持っていないところは無いと言ってもよいほどです。 さらに朝鮮の仏像を祀った村会館もあります。個人が自身の家に保管しえいるケースもあります。

 1973年、長崎県教育委員会が対馬全域を調査して発刊した『対馬の文化財』によれば、朝鮮半島から朝鮮王朝時代以前に作られて対馬に渡ってきた仏像が115点あり、このうち金銅仏像だけで10点余りあります。 現在、韓国国内にある朝鮮王朝時代以前の仏像と金銅仏像より多いほどです。 その上、これは1973年当時に確認されたものだけを集計したものであり、実際にはそれよりはるかに多いと推定されます。

 問題は朝鮮半島から渡ってきたこれらの遺物の正確な出処、対馬に渡ってきた経緯が不明だという点です。 どこでも倭寇が略奪したものだとは言いません。

 対馬のまた別の寺刹である円通寺法堂には、高さ57.4センチの金銅薬師如来座像が本尊仏として祀られています。13世紀末から14世紀始めに高麗で作られた金銅仏ですが、誰か見ても国宝や宝物に指定される程に優れた作品ということが分かります。 ところが、この仏像には全身に火で焦げた跡がはっきり残っています。 倭寇が略奪した痕跡と推定できるものです。

長崎県教育委員会が1973年に対馬全域を調査して発刊した『対馬の文化財』。朝鮮半島から朝鮮王朝時代以前に作られ対馬に渡ってきた仏像が115点に達することが明らかになっている。//ハンギョレ新聞社

 しかし、円通寺の米田明敏住職(65)は「500年ほど前に朝鮮国王から贈られたものと伝えられている。なぜ火に焼けたのかは分からないが、下手をして傷になるといけないので手をつけずにそのまま置いている」と話します。

 韓国と日本の近代史と対馬、韓国遺物の専門家であるチェ・チャホ釜山草梁倭館研究会長は「韓国人が個人で対馬にある朝鮮半島遺物を1、2点ずつ非正常的な方法で持ってくることは、問題を起こすだけで問題解決に何の助けにもならない。韓国政府やこれに次ぐ機構が、公式にアプローチしなければならない」と指摘します。 彼は「だが、それよりさらに重要で優先しなければならないことは、対馬にある朝鮮半島の遺物の現況と保管状態を先ず把握することだ。今まで何人かの学者や専門家たちが個人的にそのような努力をしたが、韓国政府は全く関心を持って来なかった。それが残念だ」と話しました。

文・写真 チェ・サンウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/666653.html 韓国語原文入力:2014/11/28 18:24
訳J.S(3316字)

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