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中国が基礎をつくり日帝が釘を刺した ‘平壌’ の漢四郡

原文入力:2009-05-20午後02:01:57
イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ/②漢四郡のミステリー

現在、主流史学界は日帝殖民史学の構図により平壌一帯を漢四郡楽浪郡地域だと規定しているが日帝も初めからそのように主張したわけではない。朝鮮統監部が東京大工科大の関野貞に平壌の石岩洞をはじめとする塼築墳(レンガ墓)調査を依頼した際も ‘高句麗古跡調査事業’ の一環だった。こういう ‘高句麗遺跡’ が ‘漢楽浪郡遺跡’ に変わることになったのは東京大の鳥居龍蔵の役割が大きかった。

日帝, 植民地性 強調しようと
漢四郡を朝鮮史の開始点として操作

中国記録 疑わしくとも
実証史学の美名の下、韓国史の定説に

鳥居龍蔵は満鉄の依頼で南満洲一帯で ‘漢楽浪時代古跡調査事業’ を遂行した人物だ。南満洲遺跡調査を終えた彼は大同江岸で中国式瓦を発見したとして、この一帯を楽浪郡地域だと主張したが格別反響を呼び起こすことができなかった。この時点ではこれらの遺跡が高句麗遺跡だということは一種の常識だったためだ。しかし、統監部が朝鮮総督府に変わった後、鳥居龍蔵が ‘高句麗古跡調査事業’ を ‘漢楽浪時代の古跡調査事業’ に改称しようと提案し、状況が変わり始めた。後日、朝鮮史編修会を主導する今西龍も初めは平壌一帯の遺跡を高句麗遺跡と見ていたが、総督府の方針を知ってから態度が変わった。以後、今西龍は行く先々で2000年前の漢の時代の瓦当(鬼瓦)と封泥を発見し2000年前に立てたがこの間誰にも見られなかった ‘秥蟬縣神祠碑’ を最初に発見する ‘神の手’ となり平壌一帯は楽浪郡遺跡に変わっていった。

←平壌にある箕子の墓。朝鮮の儒学者たちは箕子が朝鮮まできたと信じ、これを根拠に朝鮮人と中国人を同じ民族だと考えた。日帝は韓国と中国との関係を断絶させ韓国人を日本人と同族にするために箕子を否認した。

日帝,平壌一帯を楽浪郡遺跡地と規定

ところが平壌地域を楽浪郡の治所と規定して見ると箕子問題が発生した。<尚書大典> <史記>等によれば箕子は殷の紂王の誤った政治に諫言をして投獄された人物だ。周の武王が殷の国を滅亡させて釈放されたが箕子は周国を認定できないとして東に亡命した。<漢書> ‘地理志’は「殷が滅びるや箕子が朝鮮に行った」とし、彼の亡命前に朝鮮が存在していたと伝える。これはもちろん檀君朝鮮であろう。現在の遼寧省大凌河上流の喀左県で箕侯という銘文が発見されたことを契機に箕子がこの地域まできたと見る見解もある。ところで朝鮮の相当数の儒学者たちは箕子が韓半島まできたと信じ、朝鮮と中国を同じ民族だと感じることになった。このために朝鮮総督府は平壌地域で出土した中国系遺物らが朝鮮と中国が同じ民族という観念を強める契機になることを心配しなければならなかった。

朝鮮総督府は1916年<朝鮮半島史編成要旨および順序>で「朝鮮半島史の主眼点は…第一に日鮮人(日本人と朝鮮人)が同族である事実を明確にすること…」と規定したが、この目的に障害になりえた。そこで今西龍は1922年 ‘箕子朝鮮伝説考’ で箕子は楽浪の韓氏が家門を輝かせるために箕子の後えいだとかこつけただけであり、朝鮮人の先祖ではないと否認した。現在、韓国史学界主流が檀君を ‘作られた伝説’ と否認し箕子も否認しているのは今西龍が作ったこういう理論を無批判的に従っているだけだ。

‘漢四郡→任那日本府→朝鮮総督府’

今西龍は1935年に出版した<朝鮮史の栞>で韓国史(朝鮮史)の開始を漢四郡からだと叙述した。韓国史の主要な流れを ‘漢四郡→任那日本府→朝鮮総督府’ と結びつけて日帝の韓国支配を合理化するためのものだった。このように平壌地域は楽浪郡が設置されたという紀元前108年より何と2100余年後に日帝植民史学者らによって漢四郡の中心地の楽浪郡地域として再誕生された。韓国史の植民地性を強調し、日帝の植民支配を合理化するためであった。解放後、新生大韓民国は日帝が作ったこういう歴史像に対する総合的検討を通じて日帝植民史観を克服し、新しい韓国史体系を作らなければならなかった。しかし、解放後に樹立された冷戦構図の中で日帝殖民史学は実証主義という美名の下に韓国史主流学説としてずっと生き残った。そして漢四郡が韓半島内に存在し、楽浪郡が平壌一帯に存在したかに対して異見を提示すれば在野に追い立て学界から追放することで唯一の定説とした。

←司馬遷(左側) ・箕子(右側)

しかしこれを定説として受け入れるには疑問点がとても多い。日帝植民史学者らが20世紀に作った後代の見解ではなく、漢四郡が設置されたという紀元前2世紀の当代の視角で眺めれば疑問点が一つや二つではない。まず<史記>の著者司馬遷が色々な疑問点を提供する。<史記>によれば、漢武帝は古朝鮮を征伐するために左將軍 荀彘, 樓船將軍 楊僕に5万7000人の大軍を与えた。2将軍は1年を越える戦争間に幾多の紆余曲折の末、古朝鮮王室を倒し帰国した。すると漢武帝は左将軍荀彘は死刑にした後に死体を引き回す棄市刑を下し、樓船將軍 楊僕も死刑宣告を下して莫大な贖銭を捧げるや命は助けるものの貴族から庶人に降格させた。衛山は古朝鮮と講和交渉に失敗したという理由ですでに死刑され、済南太守公孫遂も勝手に軍事形態を変えたという理由で処刑された。そこで司馬遷は”太史公曰く”という史評で「両軍が共に恥辱をこうむり将帥として列侯になった人は誰もいなかった」と酷評している。その上、棄市刑にあった左将軍荀彘は「元来、侍中として天子の寵愛を受けていた」という人物なので武帝がこの戦争の結果にどれほど憤慨したのかを語ってくれている。戦争に出て行った将帥が勝利したと帰ってくれば諸侯に封じることが慣例だったが、古朝鮮との戦争に出た将帥らは諸侯どころか皆死刑にされた。多くの苦労の末に敵国の首都を占領し、その地域に植民統治機構を設置し凱旋した将帥らを死刑にする王朝が存続できるだろうか?

司馬遷が提供する疑問はこれだけではない。司馬遷(紀元前135年~紀元前90年)はこの戦争の目撃者だったが「これでいよいよ朝鮮を征伐し四郡とした」とだけ書き四郡の個別的名称も書かなかった。遠い昔の戦争も現地踏査を通じ几帳面に確認したこの歴史家はなぜ漢四郡の名前も書かなかったのであろうか? 漢四郡の名前は朝漢戦争が終わった200余年後に班固が編纂した<漢書> ‘武帝本紀’に初めて登場する。楽浪・臨屯・玄菟・眞番という名称がこの時に現れるのだ。戦争の目撃者である司馬遷が書かなかった名前を200余年後の班固はどうして書くことができたのだろうか? 班固は匈奴征伐に出た竇憲について従軍したところからも知ることが出来るように中華史観が強い人物だった。ところで<漢書>も疑問だらけだ。漢四郡に関する記述同士が互いに矛盾している。<漢書> ‘武帝本紀’は四郡と書いたが‘地理志’は「玄菟・楽浪は武帝の時に設置した」とニ郡と書き、‘五行志’は「2将軍が朝鮮を征伐し三郡を開いた」として三郡と書いた。同じ<漢書>だが ‘四郡’(武帝本紀),‘二郡’(地理志),‘三郡’(五行志)と各自記述しているのだ。

このように<史記> <漢書>のような古代歴史書が疑問だらけで記録している漢四郡を韓半島内にあったと確固として刻印させた勢力はもちろん日帝殖民史学だった。韓国史の開始を植民地にしようとする意図であった。これを韓国主流史学界が現在まで定説として持ち上げるや中国は ‘棚からぼた餅’とばかりに東北工程にそのまま借用し ‘漢江北側は中国史の領土であった’ と主張している状況だ。

中国と日本は古くから歴史を政治的目的に利用した伝統が深い国だ。中国は古代から春秋筆法という美名の下に四方の他民族に対して意図的に卑下する叙述をしてきた。<漢書> ‘韋賢列伝’は「東側朝鮮を征伐することによって匈奴の左腕を切った」と書いているが、朝鮮と匈奴の関連性は別に置いても他の民族の名前を‘蛮夷(匈)奴’と書いたことから中国人らのゆがんだ見識を見て取れる。西暦720年に編纂された<日本書紀>もやはり19世紀に那珂通世が始祖神武の即位年が操作されたという讖緯説を主張したように、歴史わい曲においては遅れをとらない国だった。中華覇権主義史観の発露である中国東北工程は20世紀の日帝皇国史観の21世紀版に過ぎないのだ。解放60年が過ぎた今でも私達の目でなく他者の目で書かれたものを韓国史の開始だと教えるならば、後世に何を言えるだろうか。

イ・ドギル ハンガラム歴史文化研究所長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/355857.html 訳J.S