"日帝時期、最高の歴史専門家といえばイ・ビョンドとシン・ソクホだ。 イ・ビョンド(1896~1989)は我が国最初の大学史学科(日本早稲田大)出身の歴史学者だ。 彼は朝鮮史編集会の嘱託として勤めたが、‘日帝時代に総督府役人たちは独立思想に関係しさえしなければそれほど弾圧をしなかったために私は安心して韓国史研究をした’と述べた。" <歴史批評>編集主幹を引き受けているチョン・ビョンウク高麗(コリョ)大民族文化研究院副教授の<植民地不穏列伝> ‘補論’に出てくる話だ。 イ・ビョンドはいわゆる‘実証史学’の拠点である震檀学会の創設を主導し、光復(解放)後にソウル大教授と大学院長、学術院会長、国史編纂委員、文教部長官などを務めた。 今日の韓国史研究主流の源流と言われている。
朝鮮総督府は1921年に総督府政務総監が兼任する総督直轄機構として朝鮮史編集会というものを作る。 日本の朝鮮植民支配の正当性の根拠をねつ造し遂げた植民史観の温床である朝鮮史編集会は<朝鮮史> <史料総監> <史料復本>等、私たちの歴史歪曲の教本・正本と言うべき文献を1937年までの16年間に無数に印刷した。 乙巳五賊中の一人である李完用(イ・ワンヨン)が顧問だった。 イ・ビョンドも1925~27年幹部級研究者である修史官輔であったし、1927年5月31日からは編集会の嘱託として仕事をした。 イ・ビョンドの孫であるイ・チャンム前ソウル大総長とイ・コンム前文化財庁長は祖父の親日疑惑を認めなかったが、朝鮮史編集会修史官輔と嘱託として仕事をしながら「独立思想に関係しさえしなければそれほど弾圧をしなかったために私は安心して韓国史研究をした」というイ・ビョンドの話をどのように受け止めればよいのであろうか。
<植民地不穏列伝>は全北(チョンブク)沃溝(オック)の人で日帝末期に京城京畿公立中学校に留学している間、友人に朝鮮独立の話をして治安維持法と流言流布罪で懲役2年を食らったカン・サンギュ学生など、とても平凡な人々の‘不穏’な話を京城地方法院検事局‘刑事事件記録’と後代の証言などを土台に細かく再構成している。
‘不穏’ということは従順でなかった、立ち向かったという話だ。 この従順でない朝鮮人を日帝は徹底的に監視したし、いざという時には各種罪名を付け苛酷に処罰した。 有名な独立闘士だけでなく名もない民衆にまでそうしたということを<植民地不穏列伝>はよく見せてくれる。
坡州(パジュ)出版都市が主催する国際出版フォーラム参加のためにソウルに来た岡本厚 岩波書店社長は、敗戦後日本人たちは中国に対しては間違ったと反省してきたが、韓半島植民支配に対しては悪いことをしたという意識がなかったと話した。 むしろ‘恩恵を施した’と考えていたんだ。 日本を代表する出版社として今年100周年を迎えた岩波の岡本社長は日本で植民支配に対する反省意識が生じたのは最近だと話した。 もちろん日本が問題だが、彼の話を聞いてイ・ビョンドと彼の作った韓国史研究主流を考えた。
<植民地不穏列伝>著者は言う。 "不穏は未来のための資産であるわけだ。 …不穏列伝の主人公たちは日帝強制占領期間ではなく解放以後に殺害されたり失踪した。 分断と戦争は私たちの社会-南でも北でも-の不穏、未来を除去する過程だった。 不穏がいない社会で独裁は始まる。" 情報査察と思想検閲、処罰が日常茶飯事になりつつある私たちの社会は依然として不穏を不穏視している。
ハン・スンドン文化部記者