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[朴露子ハンギョレブログより]「文化」という新保守主義のコード?

登録:2013-04-21 08:23 修正:2013-04-21 10:03
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授

 私たちは普通「保守」といえば、常に星條旗を振るきちがい牧師か、それとも「文化安保」を唱え「文化界の隅々に蔓延っているアカ」を声高に告発するイ・ソクボク将軍などをすぐに思い浮かべます。しかし、実は今日の大韓民国の「主流保守」はこのような「バカ」たちとはまったく異なる様相を呈しています。大韓民国がまだ輸出大国としてこれといった危機に陥ることなく、わずかではありながら成長をし続けているだけに、「主流保守」たちも多少余裕ありげで極端な主張などは避けています。そのような意味で、たとえば『中央日報』が陳重権さんのような「中道社民主義」性向の論客に紙面を割いていることは象徴的です。「その程度までは」まだ余裕があるということです。今日の「主流保守」は「合理的な福祉主義」も受け入れ、最近の『朝鮮日報』のように、貧困層や非正規労働者について心配する振りさえもいくらでもできます。「多文化主義」とは今日の「主流保守」のキーワードなのです。セヌリ党に「多文化主義的アリバイ」を提供しなければならないイ・ジャスミン議員を見てください。とりあえず農村地域に軍糧に回される米でも栽培する次世代農民たちは必要であり、その「人口学的な配慮」で「主流保守」は彼らが本当は嫌悪感を抱いている黒い顔でもなんとか我慢できるということです。そして「多文化」とか言って文章ごとに呪文のように出てくる「グローバル」と共に彼らのもう一つのキーワードは「文化」なのです。

 「文化」とは何よりも「危ない」思想や時事問題から目を背けさせる「興味深い教養」のようなものを意味します。「教養」とは旧韓末以来、新たな中問層が否応なく身に付けなければならない四書三経の代替物、すなわち「近代的博学さ」の意味で既に100年近く韓国人の意識を支配し続けた概念であり、「興味」とは李光洙以降の新小説などや『開闢』『別乾坤』『三千里』などといった20~30年代の総合雑誌以後の大衆文学、出版のキーワードであるため、「興味深い教養」の歴史はかなり古いですが、最近になるほど特に「我々」中心のこのような教養がうまく展開している時代もかつてなかったようです。様々な時代劇や『チャングムの誓い』のような家父長制をそれとなく合理化し美化する通俗物などの人気のせいか、書店へ行くと本棚がすべて「興味津津な我々の話」でいっぱいです。朝鮮時代の殺人事件、朝鮮時代の姦通事件、『美室』の類の「エロチックな」古代史の文学的劇化。まあ、明成皇后関連の書籍だけでもリスト・アップすれば約50~60種はあり、その多くは(閔氏戚族の苛斂走狗を先導し、東学農民戦争で表出された民衆の甚だしい嫌悪を一身に受けていた)「朝鮮最後の皇后」をやはり「興味本位」で「面白く」美化しています。こんなものが「韓流」という美名の下に海外に輸出され続けており、おそらく中国などにおける『チャングムの誓い』の成功は代表的でしょう。宮廷と同様の上下服従関係や家父長的な秩序を密かに合理化し妥協しようとする反動的な中産層は韓国にのみ存在するわけでもありませんから。あるいは、『我々の文化遺産踏査記』の類の書籍を思い浮かべて見ればどうでしょうか。90年代に社会の全体的な保守化が始まってから、このような書籍が今日まで「大衆的な知」の領域を支配し続けてきました。

 どうか誤解しないでください。過去に関する面白い裏話を教えてくれるので悪いことは全然なく、文化財踏査もとても良いことです。かくいう私も、慶州南山地域で行っていない寺跡や仏閣がほとんどないほど、一時は国内で時間が許す限りこのことにとても夢中になりましたし、今もあの時代を懐かしく回想しています。問題は、「文化遺産を学ぶか否か」ではなく「いかに学ぶか」ということです。たとえば、私たちが古い寺院を眺めながら、特に国家の寺のようなものが奴婢を果して何十人所有したのか、そして奴婢の所有は果して原始仏教の律蔵に照らして僧伽としてあり得ることなのか、こうした質問を果してしますか? あるいは、石窟庵などに見られる、結局は国家権力の「威厳」を象徴する四天王の力強く破壊的な像などは果たして「不殺生計」とどのように調和が可能なのか、このような質問を果してたくさん投げ掛けているのでしょうか。このような問題意識は一部の「文化財踏査記」類の本には―80年代の一種の遺産として―少しは見られるものの、大部分は単なる「わが国の風光の美しさ」「我が国の寺の美しさ」、そして勿論(!)近くの美味しい店の紹介に重点を置いています。こう言うとなんですが、実は「国土賛美」の類ほどに危険なファシズムに近い話もおそらくないでしょう。社会的な不正義、政治的支配関係などに対する問題意識が欠けている圧倒的で盲目的な「我が山河の美しさ」賛美は、実はそのような問題意識の本源的な排除を意味するからです。女弟子を障害者にさせるほどの、伝統的な秩序による暴力を当然とする家父長制を極度に美化した『西便制』以降は、キム・ギドクの『春夏秋冬そして春』に至るまで「国土賛美」はいわゆる「韓流商品」の一つのセールス・ポイントとして作用してきました。そしてこのような「美しさ商売」を「我が文化の国際的な推進」の成功と捉えて喜ぶ私たちの姿は、果して美しいでしょうか。

 今から子供の食事の世話をしなければならないので、これ以上の詳論はできないので、詳しいことは次の機会にすることにし、とりあえずこれだけを指摘しておきます。韓国で保守たちの好む、脱政治化し問題意識を欠いた、まったく「危なくない」いわゆる「文化」、様々な「興味津津な教養」が氾濫すると同時に、概して似たようなコードの商品が海外進出をして「韓流」を形作っています。「文化生産」が国内における従来の秩序通りの脱政治化された文化的な結束を図る一方、海外における「国威発揚」まで成し遂げていることで、保守主義者たちは大満足し、様々な支援策を通じて海外の韓国学までもほとんど「韓流学」に作り変えようとしています。また実際には多くの学者たちが―ある時はやむを得ず―これに応じて最近「韓流研究」は韓国官府の非常に厚い支援で「韓流」そのものに劣らず一つの国際的産業(?)にもなったようです。90年代以降における海外の日本学が―日本国際交流基金などの政策的な支援などによって―既に「文化」優先に再編されたのですが、今や韓国学も同じ運命を辿ることになったわけです。このような支援策は、非政治的にみえる「文化」領域の実質的な政治性を露骨に表しています。実際、保守たちの好む「文化」の民族主義的な色彩や扇情性、密やかな家父長制、そして『チャングムの誓い』に露骨に表れている「出世主義」コードなどこそは、保守たちの文化政治の志向を雄弁に語っているわけです。彼らはこうして全体的な保守化時代に政治的・経済的な支配の社会、文化的な基盤を固めようとしているのです。いままで彼らの作戦は概して成功的です。ところが、今の世界恐慌の展開からすれば、まもなく彼らの支配の経済的基盤は真っ先に崩れ落ちることでしょう。

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/59214 韓国語原文入力:2013/04/17 23:17
訳J.S(3034字)

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