登録 : 2013.05.25 09:57 修正 : 2013.05.26 16:18

道庁に最後まで残った彼らを記憶しよう

戒厳軍が光州(クァンジュ)全南(チョンナム)道庁を占領した1980年5月27日昼、公務員たちが市民軍の遺体を商務館に移している。 シン・ポクジン写真ヌンピッ(眼光)アーカイブ 提供

"国軍ではないでしょ? 人民軍でしょ?"
このような流言はその時もあった
流言の震源地は子供たちだった
残酷な殺戮を理解できなくて
大人たちにそのように尋ねたのだ

5月27日未明、道庁で
戒厳軍を待った彼らが
夢見た世の中は何だったか
維新王女が大統領になって
‘暴徒’を越えて‘ガンギエイ’と
侮辱されるとは想像しただろうか

 光州(クァンジュ)は痛い。 死ぬほど痛い。 30年の歳月が流れても昔の傷が癒えないからではない。 新たな空輸部隊が見慣れない凶器で刺して殴り倒す。 今になってトラウマセンター作って、痛む傷を癒してくれてどうしようと言うのか。 あのように新しい痛み、新しい悲しみが滝のようにあふれ出ているというのに…。 ‘あなたのための行進曲’は合唱は良くても斉唱はダメだ。 合唱なら合唱団さえ呼べば済むが、斉唱なら大統領も含めて参席者一同が歌わなければならないからだったのだろうか? 亡くなった方々の棺を臨時に商務館に移したことを‘ガンギエイ宅配包装完了’云々したのを見れば、そういう精神破綻者らが私たちの社会にあふれ出ているという事実が、むしろその時の戒厳軍の蛮行よりさらに恐ろしい。 そういう者は全斗煥のような奴らが連れて来て、何度か左に右に転げ回らせた後、こん棒と帯剣を持たせて光化門(クァンファムン)に放てば、その日の錦南路(クムナムノ)で起きたことよりさらにおぞましいことをためらいなく犯すだろう。 光州(クァンジュ)を体験しても、軍隊で市民に発砲しろという上官の不当な命令を拒否しろという人権教育が成り立たない国、いや発砲命令の実体さえ明らかにできない国で、再発防止は夢のまた夢だ。

"なぜ刺したんだろう? なぜ撃ったんだろう? トラックにのせてどこへ行ったんだろう?"

 1980年、新春が訪れたが、大学街は維新時代に消えた学生会を再建することに没頭していて、まだ政治的イシューを前面に提起できずにいた。 大統領 崔圭夏(チェ・ギュハ)も、国務総理シン・ヒョンファクも、新しい実力者として登場した中央情報部長代理 全斗煥(チョン・ドゥファン)も全て維新の残党らだった。 明確な理由もなく政治日程が霧の中に陥ったのは、全て維新残党らが自分たちの既得権を維持するためにもがいたためだった。 制度圏が政党と国会を通じて国民のエネルギーをまともに取りまとめられなかったために、軍と学生の対決が韓国政治の決定的な対立構図を形成してきた。 それは1979年10月釜山(プサン)・馬山(マサン)で始まり、1980年5月光州(クァンジュ)で終わったが、よく‘ソウルの春’というソウル中心的な用語で呼ばれるこの激動期にも同じだった。 ‘先手’を打った側が損をすることが多かった妙な歴史のためなのか、軍と学生は互いに顔色を伺っていた。

 街頭に先に出てきたのは一糸不乱な命令体系を持つ軍ではなく学生たちだった。 5月13日夜に続き14日と15日の2日間で数万人の学生たちがソウル市内を席巻して通ったが、学生たちの期待に反して市民たちの反応は冷淡だった。 維新末期の釜馬抗争当時、数百人の学生たちが街頭に進出するや一瞬のうちにデモ隊が数万人に増えた時とは余りにも異なる様相だった。 市民の参加が殆どないと見ると、学生たちは5月15日いわゆるソウル駅回軍をして街頭から大学に戻った。 軍部はその隙をついて出た。 政府は5月17日夜24時を期して非常戒厳宣言地域を全国に拡大した。 すべての政治活動は中断され、大学は門を閉ざし、全国で数百人の政治家と在野人士、学生たちが検挙された。 3金の内、金大中(キム・デジュン)は騒擾操縦の疑いで、キム・ジョンピルは権力型不正蓄財疑惑で連行されたが、金泳三(キム・ヨンサム)は自宅に軟禁されただけで連行はまぬがれた。 狡猾な新軍部は、金大中と金泳三を別の方式で処理することによって湖南(ホナム)と嶺南(ヨンナム)が手を握って抵抗する可能性を遮断した。 当時、大学生らはキャンパスに戻りながら、もし軍部が出る場合、学生たちが集る時間と場所を定めておいていた。 実際、学生たちが一部だが集まらなかったわけではなかった。 しかしソウル駅や永登浦(ヨンドンポ)駅などの集結地に集まった一部の学生たちは、空輸部隊が鎮圧棒を高く掲げて怒鳴りながら駆け寄るや何秒も持ちこたえることもできずにそのまま解散してしまった。 完ぺきな初戦撲殺、それが終わりだった。 光州(クァンジュ)1ヶ所を除いては。

 運命の5月18日朝10時、7空輸33大隊が守っていた全南(チョンナム)大正門前にも学生たちが集まった。 集まった学生が200~300人に達すると学生たちは勇気を出して「非常戒厳解除しろ」「金大中を釈放せよ」 「全斗煥は退け」等のスローガンを叫び始めた。 空輸部隊はまもなく鎮圧を開始した。 空輸部隊の鎮圧は警察の鎮圧とは次元が違った。 空輸部隊も釜馬抗争を鎮圧した当時の空輸部隊ではなかった。 当時、保安司が作成した‘釜馬地域学生騒乱教訓’という報告書や釜馬抗争当時に釜山地域保安部隊長だった第5共和国の核心クォン・ジョンダルによれば 「釜馬事態鎮圧作戦に対する評価過程でデモの大規模拡散を未然に防止するためには初動段階から空輸部隊などを投じ強硬鎮圧することが効率的だとの反省論が提起」されたという。 これに伴い、新軍部首脳部は現場の空輸部隊に公式・非公式ルートを通じて「騒擾者は最後の1人まで追撃し打撃および逮捕」というなど強硬鎮圧を繰り返し指示した。 結果は残酷だった。 空輸部隊は「デモ学生を捉えれば先ずこん棒で頭を殴り、なぎ倒しては三,四人が一度に駆け寄り軍靴ですりつぶしてしまい」「顔を上に向けさせておき顔面を軍靴で強くこね、こん棒で打ち血まみれにした。」 空輸部隊は血まみれになった犠牲者の足と頭を両側から持って左右に一、二と揺さぶり、三でトラックに放り投げた。 倒れた人の上に人が幾重にも積み重なった。 誰かがフランスの歌‘誰がおばあさんを殺したか’に歌詞を付け‘五月歌’を作った。 その当時 「花びらのように錦南路(クムナムノ)にまかれた君の赤い血」を思い出しては号泣しながら歌ったその歌が投じた疑問を私たちは未だ解けていない。 "なぜ刺したのだろう? なぜ撃ったのだろう? トラックにのせてどこへ行ったのだろう?"

 軍がそんなことをするはずが無かった。 事実あれは国軍ではなく人民軍だという話は今とは全く違う意味でその時にもあった。 その時のそのうわさの震源地は子供たちだった。 目の前で起きている軍人の殺戮をとうてい理解できなかった子供たちは、先生や両親に‘あれは国軍ではないでしょう? 人民軍でしょう?’と切なく尋ねたのだ。 腕に白い腕章をまいた衛生兵ならば敵軍も治療するのが当然なのに、鎮圧棒を高く振り上げ血を流している負傷者を打ってまた打った。

光州(クァンジュ)は1977年7月のニューヨークとどう違ったか

 空輸部隊の無慈悲な虐殺に市民は初めは恐怖に震えて逃げたが、いつの時点だったか、それこそ‘恐れ’を喪失した。 空輸部隊に追われる時はひたすら恐ろしいと思ったが、ひとまず身を避けると、戒厳軍が人々を殴って殺した姿が蘇って来て途方もない怒りを抑えられなくなった。 ちょっと前まで一緒にデモを見物していた人、ちょっと前まで一緒にスローガンを叫んだ人、ちょっと前まで一緒に逃げた人がピクピクしながら倒れるのを見ると、死ぬとか生きるとかいうことは自分が決定できる問題でないと思われるようになった。

 戒厳軍の蛮行に身震いして地団駄を踏んでいた市民が空輸部隊を追い出すために抵抗を始めた。 戒厳軍はおじけづいて逃げる筈の市民たちが、壮年、老年層までが出て来て抵抗を始めるやひどく慌てた。 ついに5月21日午後1時、道庁のスピーカーから愛国歌が鳴り響く時、戒厳軍は市民に向かって集団発砲を始めた。 多くの人々が犠牲になり、今度は市民も近郊の派出所の武器庫を壊し武装を始めた。 市民軍が登場したのだ。 午後8時、市民軍がついに道庁を占領した。 朝鮮王朝500年間、道庁所在地が民衆の手に移ったことは、王朝の末期に全琫準(チョン・ボンジュン)の東学軍が全州監営(カミョン)を占領したこと、その一度だけだった。

 このような烏合の衆による革命軍は歴史に例がなかった。 何の準備もなしに、何の計画もなしに、何の組織もなしに市民軍はひょんな拍子で道庁所在地を解放した。 市民に対する集団発砲直後、戒厳司令官イ・ヒソンはソウルで談話文を発表し‘光州事態’は‘不純分子’や‘固諜’(固定間諜)らの扇動に乗じたチンピラ、不良など少数の暴徒によるものと歪曲した。 鸚鵡言論は光州は暴徒の略奪と放火と破壊があふれる無法天下の乱闘場だと喚き出した。 しかし市民が主人になった光州はあまりにも秩序が整い平穏だった。 1977年7月、原子力発電所に雷が落ち米国ニューヨーク市が12時間にわたり停電になった時、数千件の略奪事故が起き現場で逮捕された者だけで3800人に達したが、銃器が数千丁行き渡った光州ではただの一件の強盗事故もなく、驚くほど平穏だった。 光州には泥棒、不良、強盗がいなかったろうか。 彼ら自身も喪中であったし、都市全体が巨大な喪家に変わっていた光州では皆が喪主だったのだ。 5月光州は巨大な悲しみの共同体であり、分かち合いの共同体であった。 戒厳軍が消費都市光州の周辺を遮断し、物資が入ってこなかったけれど物価は騰がらなかったし買い占め、売り惜しみも起きなかった。 良洞(ヤンドン)市場とテイン市場の商人たちは通りに釜を並べて握り飯を作って市民軍に食べさせた。 五餅二魚の奇跡はイエス様だけが作れるものではなかった。

 それでも市民たちはとてもとても孤独だった。 空輸部隊を追い出した時の喜びもつかの間、毎日毎日時間が流れるほどに焦燥感が襲ってきた。 光州周辺を徹底的に封鎖した戒厳軍の市内進入は迫っていたし事態解決の出口は見当たらなかった。 光州の有志と在野の人々が中心となった市民収拾対策委員会は武器を返納しなければならないと主張した。 第2次大戦や韓国戦争の時に使ったM1やカービン銃を持って、重武装した戒厳軍が腹を括って攻め込んで来れば、光州を、いや道庁だけでも守ることははなから不可能なことだった。 生きた人間は生きなければならないのではないか。 銃を下ろそうというのは間違った話ではなかった。

 しかし、しかし、その日に皆が銃を下ろしたとすれば光州は私たちの胸に今日とは違う姿として残っただろう。 最後まで銃を下ろすことはできないという人々がいた。 勝敗が問題ではなかった。 なぜ銃を下ろすことができないのか? 口では説明できないことだった。 ‘ただ’下ろせなかった。 空っぽの道庁に全斗煥とその子分らがニッコリと笑って入ってくるならば、今まで死んだ人は何になって、今まで戦ったこともまた何になるかということだ。 「生きた人間をより重く考える者は銃を下ろそうと言ったし、亡くなった方をさらに重く考える者は銃を置けなかった。」

 5月26日午後にも道庁前の噴水台で3万人余りの市民が参加した中で市民決起大会が開かれた。 市民が光州を解放した以後、毎日開かれる決起大会であった。 その日の雰囲気はそれまでとは違っていた。 その日の夜、戒厳軍の進入は確実だった。 戒厳軍はすでに最後通告を送った。 その3万人が全員道庁に残ったとすれば、戒厳軍は鎮圧作戦を展開することができただろうか? 戒厳軍を追い出した偉大な光州市民は悲壮な沈黙の中で一人二人と家へ帰り始めた。 99パーセントの市民が家へ帰り、1パーセント余りの300人余りが道庁に残った。 学生たちがいなかったわけではないが、カバンの紐が長い人(訳注:高学歴を意味)よりはカバンの紐が短い人々がはるかに多かった。 幾人かは自分たちが死んだら後を見てくれる人もいないと言って、入浴して新しい下着に着替えた。 夜は負け戦を厭わずに席を守った彼らの凄然さを飲み込んで深まるばかりだった。

1980年5月27日午前4時55分の歴史

 映画<華麗なる休暇>でシネがマイクを握って泣きながら訴えたのがまさにこの夜だった。 「光州市民の皆さん、私たちを記憶して下さい。 私たちは暴徒ではありません。」 数時間前まで道庁前の噴水台にいたが、重い足取りで家へ帰ってきた人々が夜が深まったからと眠りにつけただろうか? むしろ道庁に残った人々の方が、極度の重圧感に耐えられずうとうとと居眠りしたという。 道庁に残った人々を思えば、からだがガクガク震えて眠れなかった人々は、シネの呼び掛けを胸で聴かなければならなかった。 午前3時30分、戒厳軍は光州に進入し始めた。 4時には道庁を包囲した。 4時10分頃、戒厳軍の一斉射撃が始まった。 銃声は長くは続かなかった。 戒厳軍の状況日誌には「04:55,道庁完全占領」と書かれていた。

 全員が死を覚悟して道庁に残っていたが、あまりにも火力差が大きくてアッという間に制圧されたためなのか、かなり多くの人々が生き残った。 <五月の社会科学>の著者チェ・ジョンウン教授は「生きたかった人はみな生きたし、死を決意した人も半分は生きた」と書いた。 ことによると半分よりはるかに多く生き残った彼らは、背中に‘悪質極烈’‘実弾10発所持’‘拳銃所持’等の分類基準がマジックで書かれ、尚武台営倉に連行された。 今なお続く光州のトラウマ、生き残った者の苦痛が始まった。 今は望月洞(マンウォルトン)墓地が立派な国立墓地になったが、道庁で犠牲になった方々が一人づつ花喪輿に乗ってそちらに祀られたわけではなかった。 霊柩車でもなかった。 その方々はゴミ回収車に棺を重ねて載せられた。 ひどく暑かった5月の天気のせいで、重ねて載せられた棺の上に白濁した消毒薬がまかれた。 ‘あなたのための行進曲’の主人公ユン・サンウォンもそのようにして載せられていった。 凄絶な敗北であった。 しかし荘厳な敗北でもあった。 時に歴史では、よく負けることが苦しく勝つよりはるかに重要だった。 80年5月から87年6月までは一気だった。 5月27日の明け方がなかったら6月は来れなかった。

 生き残った者の悲しみをそっくり保管した80年代の若者たちは、自分の人生を全ては生きられなかった。 カン・プルの<26年>で失語症にかかったミジンが父親が死ぬ前に娘に残した一言、 「ミジン、お前はお前の人生を送れ」というあまりにも切々たる言葉だった。 80年代は生き残った者が先に逝った人々の人生を代わりに生きなければならなかった重い時代、死にはさまれて生きた時代だった。

 2010年に出版されたマイケル・サンデルの<正義とは何か>は2012年、大統領選挙時までに何と120万部以上売れたという。 地下鉄の駅を出た時、軍服を着た青年たちが通りすがりの女子学生をこん棒で殴りつけ帯剣で刺していたらどのようにすべきか。 それを誰が止めなければならないか。 そのような状況での正義が何かをハーバード大学の教授に尋ねなければならないのか? 5月の光州さえ見て回れば分かることだ。 ところで光州が痛い。 光州のトラウマであまりに激しい苦痛を味わっている‘有功者’やその家族を見れば、空輸部隊の不条理を見ても偉そうに止めに入るのではなく、見なかったフリをして立ち去らなければならない。

 道庁が鎮圧された後、6月1日に初めて出てきた<全南毎日>は1面にキム・ジュンテ詩人の詩<無等山(ムドゥンサン)は知っている>を載せた。 言葉は必要なかった。 題名だけ見れば市民たちは涙を流した。 そうだ、無等山は知っていた。 分からないはずがなかった。 しかしソウルの南山(ナムサン)は? 釜山(プサン)の金井山(クムジョンサン)は? 大邱(テグ)の八公山(パルゴンサン)は? 大田(テジョン)の鶏龍山(ケリョンサン)は? 今風に言えば "分かっているんだか分からない" だ。 いや、分かっていても分からないフリをした。 それで光州はあまりに痛かった。 無等山だけが知っていた。 その無等山が低くなった。 愛も名誉も名前もすべてを持った者が‘生き残った者の権力’を振り回して無等山の背骨を食い荒らし無等山が低くなった。 光州と何の縁故も持たない大韓民国各地に散在していた‘光州の子供たち’が皆口をそろえて‘私たちの永遠の青春都市’と呼んだ光州は、いつのまにか地方の小都市に萎びてしまった。 イルベの侮辱はその後に起きただけだ。 そんな侮辱を受けても悔しがりもしないので侮辱は増幅されるばかりだ。

 光州民衆抗争は朴正熙ない維新体制を継続しようとしていた維新残党との戦いだった。 それから33年が過ぎた今、維新体制の核心、朴槿恵(パク・クネ)は大韓民国の大統領になった。 私たちの歴史で光州だけは勝利した闘争だと感じた信頼が根元から揺れている今日だ。 5月27日未明、道庁に残った人々が戒厳軍を待ちながら暗い窓の向こう側に夢見た30年後の大韓民国はどんな姿だったろうか? 33年後の大韓民国が維新王女が大統領になり、貧しい家の子供たちの将来希望はたかだか‘正規職’であり、自分たちと共にした同僚が深刻なトラウマに苦しめられているならば、その日の夜に死にそうだからと道庁に残らずに家に帰ることが正しかった。 歴史は過去と現在の対話であり、歴史は絶えず再び書かれなければならない。 維新が復活した今日、道庁の彼らが私たちに話しかけている。 光州はまだ終わっていないと。 光州の歴史をこのままで終わらせることはできないと。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/05/24 19:21
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/588945.html 訳J.S(7535字)

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