登録 : 2013.03.23 15:58 修正 : 2013.03.25 10:04

そのおかげで農民は本当に豊かに暮らせるようになりましたか?

在庫があふれたセメントを無償で配って始まったセマウル運動は、時間の経過とともに官主導の官製運動に変質した。 韓国の農村は日帝強制占領期間に朝鮮総督府の農村振興運動と朴正熙政権のセマウル運動をたどりながら国家の動員体系に編入された。 <ハンギョレ>資料写真

‘貧しい農民の息子’スローガンと
閣下に呼ばれたという事実は
純朴な農民を感動させ
土地と労働力を無条件に供出した
長期政権のために田舎を狙った
朴正熙にとっては思いがけない成果であった

政府は村にセメントを配り
成果を出せなければ支援を打ち切った
競争心が燃え上がり
結い・助け合い共同体が崩壊した
加えて朴正熙の工業化は彼らを一層苦しめた

 "明け方の鐘が鳴ったよ / 新しい朝が明るいね / 君も私も起きて / 新しい村を育てよう / 暮らしやすい私の村 / 私たちの力で作ろう"

 明け方の鐘が鳴る時だけではなかった。 倭色歌謡だとして‘トンベクアガシ(椿のお嬢さん)’を禁止した国で、朴正熙大統領閣下が自ら作曲されたという日本唱歌風の‘セマウル(新しい村)の歌’は日が暮れるまで全国に鳴り響いた。 維新クーデターで再び憲法を踏みにじった直後の1973年1月の年頭記者会見で、朴正熙は「10月維新というのはすなわちセマウル運動であり、セマウル運動とはすなわち10月維新」と宣言した。 朴正熙の話でなくても、維新時代はまさしくセマウル運動の時代であった。 ほとんどすべての公務員たちがセマウル帽子をかぶり、セマウル腕章をまいて‘セマウルの歌’を歌い、セマウル研修教育に通った。 すでに政府が推進してきた多くの事業もセマウル運動に再編され、セマウルというレッテルを付けることになった。 セマウル運動は「わらぶきの家も直し、村道も広げて」という歌詞が象徴するように、農村だけに限定されたものではなかった。 都市セマウル運動、工場セマウル運動、学校セマウル運動などなどが始まりながら、空の下にセマウルではないところはなくなった。 自然に人々は何がセマウル運動で、何がセマウル運動ではないのかも分からなくなった。 1979年10月26日夜、数発の銃声と共に朴正熙が死に、下からの熱情が込められた‘セマウル運動’も事実上その幕を下ろした。 セマウルの名前をつけた政府系団体が立ち並び、官公庁ごとにセマウル旗が翻っているものの、一時維新に反対した大学生らさえも感動させた切なるエピソードを育んできたその数多いセマウル指導者たちは皆どこへ行ったのだろうか? それこそ、これもまた "同志は逝って旗だけが翻り" だ。

朴正熙による、朴正熙のための、朴正熙の…

 朴正熙は1969年8月4日、水害をこうむった地域の復旧事業を巡視して、慶北(キョンブク)清道郡(チョンドグン)清道邑(チョンドウプ)新挑里(シンドリ)の村の人々が「壊れた村を復旧するところでは、この機会に環境をよりよく育てて、きれいで暮らしやすい村を作ってみよう」として、村道も広げ屋根も改良したことを見て強く感動したという。 彼は翌年4月22日、旱害対策地方長官会議でこの村の事例を挙げて、農村で‘セマウル作り運動’を行おうと提案したという。 セマウル運動が具体化されたのは1970年10月から翌年の春まで、政府が全国に3万5000ある村にそれぞれ300余袋のセメントを無償で配りながら始まった。 興味深いのは朴正熙が各村に莫大な予算を投じてセメントを配った契機が、双龍(サンヨン)セメントの所有主であったキム・ソンゴンが朴正熙にセメント業界の在庫過剰に関する対策準備を訴えたことだったという点だ。 キム・ソンゴンは当時、共和党財政委員長として朴正熙の政治資金を管理する上で重要な役割をした人間だった。 「余ってゆくセメントを振るわないセマウル作り運動に回せる方案を考えろ」との朴正熙の指示を受けた当局は、配給されたセメントは必ず村の進入路の拡張、小さな橋梁建設、農家の屋根改良、井戸の改善、共同浴場建設、共同洗濯場作りなど、政府が例示した20余りのセマウル事業に限定して使えという条件を付けてセメントを送った。

 物資が貴重だった時期、意外にもセメントを受け取った農民たちはこれに自分たちの資金と労働力を加えて村の念願事業を解決しようとするケースが多かった。 政府の立場から見れば、期待以上の成果を上げたのだ。 朴正熙はこれに対し、内務部に指示して各村単位の事業を綿密に評価するようにした結果、約3万5000の村の内、1万6000ヶ所で優秀な成果を上げたという報告を受けた。 朴正熙はこの報告を基に全国の村を住民参加度と事業成果により基礎・自助・自立の村に分けて‘差別的で段階的な支援’を行なうようにした。 朴正熙は良い成果を上げた村1万6000ヶ所には村当たり平均セメント500袋と鉄筋1tを支援させ、残りの1万8000ヶの村には全く支援するなと指示した。 1971年は大統領選挙と8代国会議員選挙があった年だった。 与党の共和党は支援を受けられない村の反発を憂慮したが、朴正熙は「天は自ら助くる者を助く」として、選別支援をゴリ押しした。 村どうしの競争心を刺激した朴正熙の賭けは功を奏した。 朴正熙式に表現すれば 「競争してより一層豊かに暮らしてみれば、努力をする気勢が津々浦々に漲る」ことになった。 このような変化は必ずしも肯定的なことではなかった。 このように競争の気勢が覆い尽くす過程で、村を越えた共同体的きずなは破壊され、村内でも劣悪な経済的境遇によって村単位の競争に労働力を提供できない家は村でますます暮らしが苦しい境遇になった。

 キム・ジョンニョムをはじめとする維新政権の核心要人らが口をそろえて証言しているように、セマウル運動は「純粋に朴大統領の個人構想から開始」された。 当時セマウル教育で活用された教材を見れば「閣下は(…)セマウル運動の概念から事業内容、そして展開方向に至るまで詳しい指針を自ら構想され、時に合わせて国民の前に提示・説明された」という。 パク・チンドとハン・ドヒョンが詳しく説明したように 「セマウル運動は初めから整然たる理論や体系を持って始まったことではなく、最高指導者の素朴な関心から出発して一時国政の最高政治哲学にまで発展したもの」 だ。 それゆえにセマウル運動は「朴正熙という個人、そして維新体制を別にしては説明できない」。

朝鮮総督府の農村振興運動にそっくり

 多くの観察者らは朴正熙のセマウル運動が1930年代に朝鮮総督府が推進した農村振興運動にそっくりだと指摘する。 朴正熙が1970年に唱えた‘セマウル作り’とは朝鮮総督府の‘アタラシイ ムラ ヅクリ’を文字どおり翻訳したものだった。 朴正熙が1937年から満3年間、教師として勤めた聞慶(ムンギョン)公立普通学校は、農村振興運動の一環で2ヶ所の更生農園を経営しており、朴正熙はこの農園に出て行き40余日間指導をしたという。 農村振興運動が朴正熙に及ぼした影響を最も詳細に記述したのはチョ・カプジェであった。 チェ・キルソン教授の研究成果を引用し、チョ・カプジェはセマウル運動と農村振興運動の類似性について、このように叙述した。 "運動の理念は、朴正熙大統領のセマウルが‘自助、自立、協同、忠孝愛国’であり、その集約的表現が国民教育憲章だったのに対して、宇垣総督の農村振興は‘自立、勤倹、協同共栄、忠君愛国’と教育勅語であった。 朴正熙と宇垣、二人とも農村出身の軍人だった。 二つの運動の現場指導者はセマウル研修院と農導講習所によってそれぞれ養成された。 セマウルの歌と農村振興歌、経済開発5ヶ年計画と農家経済5ヶ年計画、育林日と営林日、模範部落の選定など共通点が少なくないのが事実だ。"

 朴正熙のセマウル運動と朝鮮総督府の農村振興運動が‘官製国民運動’として種々の面で似ているのは事実だが、両者の重要な差異も見逃してはならない。 特に運動が広がる当時の社会経済的状況は大きく異なる。 宇垣が農村振興運動を始めた時は世界大恐慌の被害が朝鮮の農村を覆い、小作争議、水利組合反対闘争、賦役反対闘争など農民の自然発生的な生存権闘争が激烈に展開され、社会主義者たちは積極的にそのような状況に対処して革命的農民組合運動(赤色農民組合運動)を積極的に展開した時であった。 総督府当局は全国80ヶ所余りで120件余りの赤色農組運動を摘発し6000人余りを検事局に送検しなければならないほど深刻な体制危機に直面していた。 チ・スゴルによれば1932年7月に始まった農村振興運動はこのような状況下で推進された‘非常時’の‘非常な政策’だった。

 セマウル運動が展開した時点にも明らかに危機は存在した。 朴正熙の輸出主導型経済発展戦略は農村の犠牲を前提としたものだったので、経済が発展するほどに農民の境遇は不安にならざるを得なかった。 1960年代前半でも農家所得が都市勤労者世帯の所得より多かったが1970年に入ると農家所得は都市勤労者世帯所得の70%台に急落した。 朴正熙がセマウル運動を始めた時期はチョン・テイルの焼身(1970年11月)と光州(クァンジュ)大団地事件(1971年8月)等、都市で労働者と都市貧民の不満がぎりぎりまで高まった時期であった。 朴正熙にとっては幸いなことに、まだ農村では都市とともに不満が爆発的に噴出してはいなかった。 韓国戦争とそれを前後しての民間人虐殺をたどり、農村内部の‘不安要因’が徹底的に去勢されただけでなく、都市へ都市へと向かう離農の隊列は不満が農村に爆発するほど積もる隙を与えなかった。 それでも状況は良くなかった。 農家一戸当たりの平均負債は1962年の4751ウォンから1969年には1万2518ウォンに大幅に増えた。 1971年の総選挙で与村野都現象は依然として存在しており朴正熙政権を支えたが、農村での与党支持率は1963年と1967年総選挙の67%台から1971年総選挙では58%へと大きく後退した。 朴正熙が執権し続けるためには農村での支持率がこれ以上下落することを防止して都市の反政府ムードが農村に広がらないよう予防しなければならなかった。

 朴正熙がまだ生きていた1979年7月に発刊された<新東亜>に載せられた文はセマウル運動が成功的な農村近代化戦略だとすれば "1960年代前半に農村人口100人中1.3人が‘古い村’を去ったが、なぜ1970年代後半には毎年3.7人が‘セマウル(新しい村)’になった農村を離れたのかを説明できなくなる" と指摘した。 朴正熙はいつも 「セマウル運動は一言で言えば‘豊かに暮らす運動’だ」と強調したが、農業の犠牲を前提とした工業化、農業と工業間の不均等発展、農家負債、非民主的農政、農産物低価格政策と外国農産物輸入など構造的な問題には手を付けずに、所得増大を試みることは不可能なことだった。 セマウル運動が展示行政に終わらずに実質的に農家の所得増大を成し遂げたとすれば現在の農村がこれほどガランと空きはしなかっただろう。

 反面、国家の立場から見る時、または朴正熙政権の立場から見る時、セマウル運動は大変重要な成果を上げた。 道路の舗装や補修、橋梁の建設などのような事業は正常な近代国民国家であれば当然に国家予算で実行されなければならない事業だった。 村道を供出する時、多くの人々は国家から一銭の土地補償金も受け取らずに自分の土地を喜んで出した。 1960年代の社会間接資本建設内容と比較してみる時セマウル運動を通じて政府は下から無償で社会間接資本建設のための土地と物資と途方もない労働力を調達できたのだ。 このようにして創出された余剰は「国家を媒介として国内外独占資本に移転」された。 初期にはセマウル運動で農民の自発性が非常に目立ったが、年が経つほど農民は意志決定構造から排除されたし、セマウル運動の実行はほとんど公務員たちによって主導された。 政府はセマウル運動中央協議会を設置し、その傘下に道-郡-面-里に連なる下部体系を建設した。 大統領の焦眉の関心事がセマウル運動であったために、各公務員たちがセマウル運動でおさめた実績は彼らの昇進と直結した。 維新体制の硬直した雰囲気の中で公務員たちが夏に暑く、金も多くかかるスレート屋根よりわらぶき屋根の方が良いとして屋根‘改良’をしない家の屋根を鉤で取り壊したり、統一稲を植えなかった苗代を長靴で踏みにじる事態が頻繁に発生した。

わらぶき屋根を取って捨て、苗代は踏みつけて

 セマウル運動の官主導性、強圧性、展示行政、成果主義などは朴正熙の死後、内務部でさえ公式に認めたセマウル運動の代表的問題点だった。 ところがセマウル運動指導者大会で演説する内容や演説する姿や各村に配布された機関紙<セマウル>に紹介されたセマウル指導者の姿は宗教集会での聖霊が一杯に溢れる告白を見るような熱さを持っている。 それこそがセマウル運動の最も大きな力だったのかも分からない。 事実、朴正熙は農民が 「無知と貧困の中で暮らしながらも、もっと豊かに暮らそうとする考えはなかったし」、「堕落とねたみの中で飲酒と賭博で日がな過ごして」いると非難したりもした。 農村が窮乏した原因を野良に出て行き一日中働く農民が怠けたり自暴自棄になったせいにした点も、朴正熙のセマウル運動と‘自力更正’を叫んだ農村振興運動に共通している。

 このような問題点にもかかわらず、当時の農民が‘豊かに暮らしてみよう’を叫んだ朴正熙の呼び掛けに非常に積極的に呼応したのにはそれなりの理由があった。 朴正熙は演説でしばしば「私は貧しい農民の息子として生まれて」という話をした。 韓国の政治史でこのように話せる最高指導者は朴正熙が初めてだった。 李承晩は西洋女性と一緒に暮らす米国博士様だった。 よっぽどでなければ呼称は李博士ではなく李大統領になるのが普通だろう。 ユン・ボソンはソウル安国洞(アングクトン)の宮殿のような家に住む名門貴族大地主一族の後えいであった。 農民は自身を貧しい農民の息子と規定しながら‘私たちも一度豊かに暮らしてみよう’を歌って村の老人らと田植えをしてマッコリを飲む朴正熙に、李承晩とユン・ボソンには見られなかった同質感を感じた。 朴正熙はセマウル運動を説明する過程で農民を怠けていると恨んだりもしたが、彼らを運動の主役に呼び出した。 大統領に直接招請を受けたという事実、何か重要な存在として待遇を受けたというのは、農民 特に社会的に劣悪な後れを取ったがセマウル運動に積極的に加担した人々には大変重要な経験だった。 時に彼らはセマウル帽子と腕章を通じて権力を与えられもした。 貧農の娘に生まれたが婦女会長になった女性指導者は、賭博追放のスローガンを高く掲げて男たちが集まった広間のドアを開け放し花札版をひっくり返すことができた。

 総督府の農村振興運動に続きセマウル運動をたどりながら国家の動員体系は村の中に深々と浸透した。 国家が資源配分を通じて村内外の競争を煽りながら、結いや助け合いのように共同体内で互いに助け世話する農民自身たちの組織は全てこわれてしまった。 維新体制が要求したものとは異なる方向で農民を組織し生活の向上を試みた動き、例えば江原道(カンウォンド)原州(ウォンジュ)でチャン・イルスンらが組織した協同組合運動は監視と弾圧を受けた。 2012年協同組合基本法が通過したことは、セマウル運動がはき捨てた‘社会的経済’が復活できる良い機会を提供したわけだ。 朴正熙の遺産を受け継ごうとする朴槿恵(パク・クネ)大統領が最も注目しているのはセマウル運動だ。 あえて第2の5・16をするとか、第2の維新をするとは言えない朴槿恵大統領が高く掲げられる朴正熙印の政治は‘第2のセマウル運動’しかない。 再び時代錯誤的にやれば良いとゴリ押しして、下からの自発性をはき捨てることがないことを望むだけだ。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/03/22 21:22
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/579325.html 訳J.S(6730字)

関連記事
  • 오피니언

multimedia

  • most viewed articles
    • hotissue