登録 : 2013.03.09 01:05 修正 : 2013.03.10 21:51

戦闘もしないのに、1万人を超える軍人が死んだ

韓国戦争以後の軍死亡者 6万人
朴正熙執権18年間で3万4千名
維新時代だけで 1万1千人以上…
戦争でない戦争、戦闘でない戦闘
私たちは軍隊でのこの死を
仕方ないことと感じてはいないか

全斗煥執権後にはそれでもマシになった
軍死亡者数は半分に減った
虐殺の血を濯ごうとする努力であり
バク・チョンヒのように大日本帝国の水を
多く飲まなかったおかげだった

 あまりに多くの軍人が死んだ。 韓国戦争の銃声が止んだ後、今日までの60年間に軍隊で命を失った若者の数がベトナム戦争で戦死した5000人を除いても、軍隊用語で‘非戦闘人名損失’がほぼ6万人に肉迫する。 韓国軍では戦争をせずとも毎年1000人の軍人が死んでいったのだ。 イラク戦争の9年間、米軍死亡者数を概略4500人と捉えるならば、年平均犠牲者数が900人だが、韓国軍は戦争をしなくてもそれより多くの人々が死んでいったのだ。

 死ぬ理由も本当に様々だった。 劣悪な環境の中で病気に罹り、まともに治療を受けられずに死んで、殴られて死んで、自殺して、交通事故で死んで、山崩れで死んで、雪崩で死んで、洪水で死んで、日射病で死んで、いろいろな原因で軍人が死んでいった。 この頃<レ・ミゼラブル>をパロディにした<レ・ミリタリブル>が人気だそうだが、軍隊で除雪作業とは<レ・ミリタリブル>式にロマン化されえるものではなかった。

‘朴正熙師団長’時期に大雪で死んだ59人

 1956年2月末、記録的な大雪が降った時、朴正熙が師団長であった5師団では除雪作業をしていた小隊長と士兵8人が雪の中で凍え死ぬ惨事が起きるなど計59人が大雪のために死亡した。 当時、軍隊で厚生事業という名目で炭を作って売り、幹部の月給を補充していたが、炭を焼いた臨時建物が崩れたり、雪に埋まったりして、その中にいた将兵が窒息死したのだ。 人命被害の規模だけに着目すれば、天安(チョナン)艦事件より多数の被害が出たのに、師団長が人事措置されることもなく、むしろ大雪でご苦労だったと表彰状を受けもした。 その時、もしもまともな人事措置が下されていたとすれば、今日私達が知る朴正熙も、朴槿恵(パク・クネ)もいなかっただろう。

 2006年に軍疑問死委員会が作られた時、委員会に無念に死に至った子供や兄弟の怨を解いてほしいと委員会に事件を申請した事例は600件に過ぎなかった。 軍隊で死に至った事例のやっと1パーセント程度だけが遅ればせながら真相究明を要求したわけだ。 両親の立場から見れば、軍隊で発生したすべての死があってはならない死であり、疑問死であった。 それにもかかわらず、100件中1件程度だけが真相究明を要求した理由は何だろうか? 残りの事件は疑問の余地がないものだったのか? あるいは結果を待つこともできないのに、むやみに数十年前の事で再び傷を受けるかと思い恐ろしかったためなのか? さもなくば、子供を胸に埋めた両親たちが、その苦痛に耐えられず子供のそばに早く逝った結果、無念な死の理由を解いてほしいと訴える人さえ残っていなかったためであろうか? その600件の死亡事故の中で、重複、併合、却下された事件を除く579件中の58パーセントにあたる334件が比較的最近である1980年代以後の死亡者であった。 その全体人数は1万1180人で1954年以後の死亡者合計6万1424人の18パーセントに過ぎないにも関わらず。

 大衆講演を行なう時にしばしば投じる質問がある。「民主化されて暮らし向きがちょっとは良くなりましたか?」熱くなった雰囲気はすぐに冷水を浴びせたように沈んでしまう。 暮らし向きが良くなったとすれば、李明博、朴槿恵が続けて執権する筈がないではないか。 すると、民主化されて私たちの社会が少しでも良くなったことはないのか。 私たちは民主化が残した最も重要な成果を忘れて生きてきた。 軍隊に行った子供たちを両親の胸に埋めなければならなかった死の時代を終わらせたという点だ。 <表>に見るように1998年の民主政権スタート以後、軍死亡者数は減り続け、盧武鉉政権末期には120~130人水準に下がり現在に至る。 朴正熙独裁政権時期に比較すれば、民主化は軍隊内死亡者数を10分の1以下に減らした。 強制徴集された兵士たちを対象に密偵の役割を強要し、6人の無念な犠牲者を出した緑化事業のようなものが中断されたことだけを意味するものではない。 民主化は必ずしもデモを行って捕えられたわけではない平凡な若者たちを、毎年1000人以上死のどん底からすくい出した。

 軍事政権時期、軍隊内で途方もない死の行進が続いたのは言論が本来の役割を果たせなかったためだ。 朴正熙の維新クーデター直後に国会が解散した状態で非常閣僚会議が制定した代表的な維新悪法である‘軍事機密保護法’は、事実上軍に関連したすべての事項を機密範疇に縛りつけただけでなく、 「新聞・雑誌またはラジオ・テレビ、その他出版物によって」罪を犯した者は刑の2分の1まで加重できるようにして言論の口を塞いだ。

 軍隊内での死亡事故が大幅に減ったのには、子供を胸に埋めた両親たちの恨が極に達した苦闘が大きく作用した。 依然として軍出身の盧泰愚が執権していた1990年11月には、1987年6月に軍で疑問死した息子(イ・ジンドン)を持つ撤去民イ・チュンウォン氏が自ら命を絶ち、1991年2月には1987年9月軍で疑問死したチェ・ウヒョク氏の母親カン・ヨンイム氏が漢江(ハンガン)に投身自殺した。 子供を失った父親と母親が自ら命を絶って子供の無念な死の真相を明らかにすることを訴え、軍疑問死問題を公論化しようとしたが、当時の言論が軍では多くの人が空しく死んで当たり前と考えたためだろうか? 軍疑問死の公論化は簡単にはできなかった。

民主化以後、死亡者 大幅に減り、事故は表面に出るようになった…

 軍事独裁時期、軍隊は聖域だった。 その時は軍隊で人がまとまって死んでも新聞に1行の記事も出さなかった。 民主化以後に軍隊での事件と事故が報道され始めた。 そうするうちに、あたかも民主化以後に軍隊内で事故が突然急増したように見えることになった。 民主化を誹謗する守旧勢力は、民主化以後に人権とか何とかを求めた結果、軍隊で軍規が崩れ事故が頻発していると言い、南北和解とか民族共助とか騒いだ結果、主敵概念が消えて事故が急増したと主張している。 しかし彼らが言うように、軍規がびしっとしていて "ひっ捕まえろ金日成、打ちのめせ共産党、打ち破れ北韓軍、成し遂げろ維新課題" を号泣しながら叫んだ維新軍隊では、軍規が崩れたという民主軍隊に比べて十倍をも超える若者たちが家に戻れなかった。 軍事政権時期と民主化以後を比較してみる時、韓国軍の兵力数や構造が大きく変わったとは言えない。 変わったのは、民主化により軍がもはや聖域ではなくなり、民間社会が軍を少なくとも覗いて見ることができるようになり、軍隊で人が死ねば犬死にしかならなかったのが、今では二等兵の死に対しても場合によっては指揮ライン上にいた指揮官らがぞろぞろと軍服を脱ぐこともありうる状況が用意されたわけだ。 死亡事故を適当に覆い隠せなくなると実効性ある殴打および苛酷行為根絶や自殺防止プログラム開発などに多くの努力が傾注され、実際に死亡事故発生件数は驚くほど減った。

 韓国軍で数十年にわたり途方もない非戦闘人名損失が発生した歴史的根源は、初期韓国軍の上層部がほとんど日本‘皇軍’と‘皇軍’が育成した傀儡満州軍の出身者で構成されたところに求めることができる。 後発資本主義国家として急速な産業化と軍事化を推進した軍国日本は、団体生活の組織的規律と近代式時間概念と無関係に生きてきた前近代的な農村青年たちを一日も早く近代化された軍人に育成しなければならなかった。 団体生活の経験がなく、時計を見ようとも思わず、近代的な時間概念が最初からなく、機械を扱ったことも全くなく、文盲であった農村青年たちを直ちに戦闘に投入できる軍人に作る作業は、当然に暴力を伴わざるを得なかった。 日本軍内での慢性的な殴打と苛酷行為はこのような必要性のために上部から単純な黙認を越え助長されたとまで言うことができる。 総力戦時期に後発帝国主義国家としての劣悪な経済力を挽回するために、日本軍は早期に‘火力主義’をあきらめ精神力を前面に出した。 ‘肉弾3勇士’等、身を粉にして‘なせばなる’、‘黙ってやれ’の伝統はこのようにして作られていった。 日本青年たちでさえ殴り倒して皇軍を作ったのに、まして銃を逆にかまえるやも知れない植民地の青年たちは数倍も殴り倒さなければならなかった。 日本人の下で将校に出世したかった朝鮮青年たちは植民地出身という‘コンプレックス’に勝つためにも朝鮮人兵士たちにさらに暴力を振るわなければならなかった。 新生韓国軍の主役になった日本軍・満州軍出身者らは‘皇軍’の軍事文化をそっくり韓国軍に移植した。 韓国軍の外見、戦術教理と編成と武器は米軍に似たが、韓国軍の意識構造と作動方式は日本軍の悪習を受け継いだのだ。

 虐殺者 全斗煥がそれでも朴正熙よりマシだった点は、第5共和国時期の軍隊死亡者数が維新軍隊時期のほとんど半分に減ったという点だ。 1981年1月に強制徴集された私が自隊に配置されて一番多く聞いたことは軍隊が大いに良くなったし、今は維新軍隊ではないという言葉だった。 何も知らない一兵卒だった私が見ても、全斗煥が死亡者数を減らすために努力したことは明らかだった。 全斗煥時期に軍隊死亡者が大幅に減ったのには二つの理由があると言える。 全斗煥は自身が悪者だということは知っている悪者だった。 手についた虐殺の血を洗い落とす方法の一つが、軍隊死亡者数を減らすことにあらわれたと言わざるを得ないだろう。 もう一つの理由は、全斗煥が大日本帝国の最後の軍人と呼ばれた朴正熙とは違い、それでも日本軍の水を飲まなかったという点だ。 全斗煥世代も日本軍国主義の教育を強く受けた世代ではあるが、それでも日本軍の服を着てみたことが有ると無いとの差は無視できない。

士兵を‘犬’として扱った独居特倉、そして1万ウォン

 ただ一人の列外も認めず兵役忌避率ゼロを夢見た朴正熙政権は、エホバの証人を無条件に軍隊に引っ張っていった。 彼らは民間人であり兵役法に違反したということではなく、軍隊で抗命罪を犯した門で処罰を受けることになったわけだ。 エホバの証人が論山(ノンサン)訓練所に連れられて来るや訓練所長キム・ヨンソンは「どんな術を使ってでもエホバの証人を‘教化’しろ」と憲兵隊に指示した。 もちろん殴れという指示はなかった。 ただし、エホバの証人が増えれば大韓民国が滅びるとし「睡眠もとらせるな。 夜も休ませるな。 骨身惜しまず仕事もさせて、必ず教化して再服務させろ」と指示しただけだ。 1975年11月14日エホバの証人キム・ジョンシクが執銃を拒否し、中隊長に殴打されて倒れ数日後に亡くなった。 キム・ジョンシクが死んだ後、エホバの証人として軍隊に連行されたパク・ジョンウクは壮丁身分でキム・ヨンソン訓練所長に呼び出された。 彼によればキム・ヨンソン所長は二度と暴力は使わないと約束したという。 それで論山訓練所に設置されたのが‘独居特倉’だ。 独居特倉は現在西大門(ソデムン)刑務所歴史館に日帝の悪行を告発する証拠として展示されているような形の特別拘禁施設だ。 独居特倉の大きさは横1m、縦0.6m、高さ2mのレンガで作られた空間で、論山訓練所憲兵隊営倉の一部施設を改造して設置したものだ。 一般刑務所の独房に比べてはるかに小さいここに収監された人々の多くが、30年が過ぎた今でも恐慌障害などの心理的障害で苦痛を受けている。 独居特倉に収監された人々の手は後に縛られた。 誰かが眠ろうとすると憲兵がベルを押し、収監者は再びベルを押して答えなければならなかった。 手は後に縛られていたので口でベルを押した。 差し入れ口から飯を入れれば、身を処すこともできない狭い空間にうずくまって座り、口で飯を食べ、用便も服をおろせないのでそのまま済ませなければならなかった。 犬と変わりなかった。 論山ではそれでも死亡事故が出はしなかったが、1976年3月39師団に防衛招集されたイ・チュンギル、1976年3月海兵1師団に防衛招集されたチョン・サンボクなどエホバの証人が‘変死’処理された。 イ・チュンギルの遺族には部隊長名義で現金1万ウォンが慰労金として渡された。

 ベトナム戦争期を含む朴正熙執権18年間に約3万4000人、維新時代だけでも何と1万1000人以上が軍隊で命を失った。 維新時代に朴正熙は自身の長期政権のために国民を相手に戦争をしたためだ。 このように多くの死亡者が軍隊で発生した重大な理由は、軍隊に行ってきた私たち皆が実はこの死を仕方のないことだと感じて知らぬフリをしたためだ。 そうした私たちが今は親となって子供たちを軍隊に送り、戦々恐々としている。 軍隊から生きて帰ってきて軍服務をした方向に向かっては小便も垂れずに生きてきた(訳注:二度とその方向を振り返りたくない、それほど軍隊生活が悪夢のようだったという意味で、よく言う表現だという)、この地の予備役たちよ! まだ咲くことができずに倒れて行った6万の若者たちに "捧げ銃!" 子供を胸に埋めた12万の父母たちに "捧げ銃!" 慟哭しながら慟哭しながら "捧げ銃!"

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/03/08 20:47
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/577270.html 訳J.S(5666字)

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