2002年末~2003年初めに浮上した「朝鮮半島第2次核危機」は、1993~1994年の第1次核危機といくつかの点で異なる経路に進んだ。第一に、1994年6月の「寧辺(ヨンビョン)の核施設爆撃計画」のような朝鮮半島戦争危機には広がらなかった。第二に、初期の収拾過程で朝米2国間交渉ではなく、多国間交渉の枠組みが模索され、実行された。第三に、「仲裁者中国」が出現した。
1994年から8年にわたり朝米関係と朝鮮半島平和の安全弁の役割を果たした「朝米枠組み合意」(1994年10月21日)体制を崩壊させたジョージ・W・ブッシュ政権は、イラク侵攻(2003年3月20日)とともに「北朝鮮核問題の国際化」を進めた。クリントン政権の朝米2国間交渉と「朝米枠組み合意」を「低姿勢外交の窮まり」と猛非難してきたブッシュ政権の選択肢に、北朝鮮が望む2国間交渉は含まれていなかった。ブッシュ政権は2国間交渉を北朝鮮に対する「飴」だと考えていた。また「北朝鮮の核問題は米国一人で責任を負う問題ではない」と公然と主張した。
ブッシュ政権は当初、第2次核危機を取り上げる多国間交渉の枠組みとして、「P5+5」枠組みを北朝鮮に提案した。国連安全保障理事会常任理事国(P5、米英仏中露)に南北と日本、オーストラリア、欧州連合(EU)を加えた形だ。10カ国のうち確実な北朝鮮の味方は中ロの2国だけだ。北朝鮮が受け入れるはずのない多国間交渉の枠組みだった。
しかし、世の中の出来事はそう単純ではないものだ。善良な意図が良い結果を保証するわけではないように、悪い意図が必ずしも悪い結果だけを生むわけでもない。ブッシュ政権の8年間にわたり国家安保補佐官と国務長官を務めたコンドリーザ・ライス氏は、「ブッシュ大統領は北朝鮮に対する影響力を持っている国は中国だけだとし、中国を動かして6カ国協議を進める案を選んだ」と、回顧録『ライス回顧録 ホワイトハウス激動の2920日』に書いた。このようにブッシュ政権は責任回避のために中国を引き入れて北朝鮮を制御しようとしたが、この選択が思いがけないバタフライ効果を生んだ。
ブッシュ大統領の命令によってコリン・パウエル国務長官が2003年2月25日、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の就任式に出席するため、北東アジアに来た折に北京に立ち寄った。パウエル氏は米国、南北、中国、日本が参加する多国間協議を組織してほしいと中国に提案・要請したが、中国は即答せず、答えを先延ばしした。するとブッシュ大統領が江沢民国家主席に直接電話をかけた。「強硬派から北朝鮮に対する軍事力使用の圧力を受けている。また、北朝鮮を今牽制しなければ、日本の核武装化も排除できない」という趣旨で説得したと、ライスは回顧録に書いた。
ついに中国が動き出した。「仲裁者中国」の出現だ。ブッシュの「頼み」を聞き入れる形で、中国が米国と交渉に使う「請求書」を集めるという思惑に加え、「第4世代指導者」となる胡錦濤国家主席体制の登場とともに、「浮上する大国、中国」の外交力を国際社会に誇示しようとする戦略的判断などが広く働いた。2003年3月、外交部長(長官)と国務院副首相を務めた銭其琛氏が平壌(ピョンヤン)を訪れ、ブッシュの要請どおり「5カ国協議」を口にした。北朝鮮がこれを拒否すると、銭氏は朝米中3カ国協議案をすぐに持ち出した。朝米2国間交渉を望む北朝鮮と、2国間交渉は絶対不可だという米国の間に、橋渡しをしたのだ。北朝鮮には「3カ国の枠内の2国間」、米国には「2国間ではなく3カ国」という名分を与える折衷案だ。ニューヨーク、北京、平壌の三角駆け引きの末、2003年4月23日、北京で朝米中3カ国協議が開かれた。3カ国協議は何の合意もなく終わった。しかし、北朝鮮の「核兵器の不拡散に関する条約」(NPT)脱退宣言(2003年1月10日)から約100日ぶりに朝米が交渉テーブルをはさんで向かい合ったという事実が重要だ。米国と違って、北朝鮮をよく知る中国の巧みな外交手腕の成果だ。そのように表向きには合意なしに終わり失敗したかのように見えた3カ国協議は、4カ月後の6カ国協議発足の基礎になった。「仲裁者中国」は6カ国協議の議長国になった。
ブッシュ政権は、北京3カ国協議を当初構想した5カ国協議に切り替えようとした。ところが米国の「5カ国協議」構想を聞いたロシアのイーゴリ・イワノフ外相が「一体ロシアを排除するというアイディアを誰が出したのか」と問い詰めると、パウエル氏は5カ国協議の構想を、ロシアを含む6カ国協議の構想に素早く変えた。チャールズ・プリチャードが『失敗した外交(Failed Diplomacy: The Tragic Story of How North Korea Got the Bomb)に書いている。
米国の予想を裏切り、北朝鮮は「6カ国協議にしよう」と提案をしてきた。北京での3カ国協議直後、「必要な物理的抑制力を備えることを決心した」(2003年4月30日、外務省報道官談話)と脅しをかけていた北朝鮮は、「まず2国間協議を行い、引き続き米国が提起する多国間協議にも応じ得る」(2003年5月24日、外務省報道官談話)と言ったが、ついに「(追加の)3カ国協議を経ず、直ちに6カ国協議を開催し」(2003年8月1日、外務省報道官談話)と素早く態勢を変えた。北朝鮮としては自国に不利な構図である5カ国(朝中 対 韓米日)よりは、ロシアを含む6カ国の方が、米国を相手にする際に力のバランスを比較的取りやすいと判断した可能性がある。北朝鮮が6カ国協議を受け入れる直前、金正日(キム・ジョンイル)総書記を「ピグミー」と嘲弄していたブッシュが「ミスター金正日」という礼儀をわきまえた呼称を口にし、戴秉国中国共産党対外連絡部長の訪朝など、中国の執拗な対北朝鮮説得が呼び水となった。
6カ国協議は朝米2国間交渉を避けようとしたブッシュ政権の責任回避の副産物だが、意図せざる良い交渉の枠組みだった。北東アジアの域内秩序に直接的な利害関係を持つ国家がすべて交渉テーブルに着いたという事実が何よりも重要だ。朝鮮半島の臨時軍事停戦体制を恒久的平和体制に変えるのに必要な交渉当事国である南北米中の4カ国に、北東アジア冷戦敵対を脱冷戦の協力安保秩序に変えるために参加すべき日ロが結合した構図だ。「ドアの外」に放置されたり、追い出されたりした利害当事者が誰もいない。6カ国協議は「北東アジア脱冷戦の種」を抱いた立派な培養器だった。
6カ国協議の初期の通知表は、一見すると落第点に近かった。2003年8月27日~29日の3日間、北京の釣魚台国賓館の芳菲苑で1回目の6カ国協議が開かれたが、6カ国が同意した会談結果の発表文さえ出せなかった。交渉の土台になる共通基盤を見出せなかったという意味だ。ジェームス・ケリー国務次官補(東アジア太平洋担当)を団長とする米国代表団は、独自の交渉案もなしに会談に臨んだ。予見された決裂だった。6カ国協議議長の王毅中国外交部副部長が、1回目の6カ国協議直後、「米国の対北朝鮮政策、まさにこれが我々の直面している問題だ」と不満をあらわにしたのもそのためだ。
2回目の会合は、それから6カ月後の2004年2月25~28日、北京の釣魚台国賓館で開かれた。第1回より会談期間が1日長くなったという「素朴な進展」(ロシアのアレクサンドル・ロシュコフ外務次官、ロシア首席代表)があった。第1回の「議長要約文」は第2回から「議長声明」に格上げされた。中国側首席代表の王毅議長は「『相互調整された補助(step)』による問題解決方法の受け入れ」など、5つを第2回会合の成果に挙げた。しかし、第2回会合でも目立った進展はなかった。米国代表団は今回も独自の交渉案を示さなかった。
3回目の会合はそれから4カ月後の2004年6月23~26日、北京の釣魚台国賓館で開かれた。同会合は6カ国協議に対する失望を広めた。3回目に至っても実質的な合意にも至らず、6カ国協議の持続可能性に対する疑念を抱かせた。一方、それより大きな期待を持たせる内容もあった。「2004年の第2四半期内に第3回会合の開催、実務グループの構成」という第2回会合の約束どおり、第3回会合が開かれ、その直前に各国の次席代表が出席した「(事前)実務グループ会議」が2回(2004年5月12~15日、6月21~22日)釣魚台国賓館で開かれた。何よりも米国の代表団が初めて独自の交渉案を提出したという事実が重要だ。「交渉の基礎」ができたのだ。第3回会合は6カ国協議を象徴する言葉になった「『言葉対言葉』と『行動対行動』」の原則と、「段階的過程」というアプローチに各国が共感することを「議長声明」として公表した。ゆっくりとだが、進展がないわけではなかった。
10カ月間に第1~3回会合を開いた6カ国協議は、4回目の会合を招集するまでに再び13カ月を費やした。第3回会合と第4回会談の間に、6カ国協議の進路に重大な影響を及ぼす変化が米国側から芽生え始めた。2004年11月のブッシュ再選後、新たに再編された「第2期ブッシュ政権の外交チーム」の出現だ。