「もうやめろ」と言われても母親はやめることができなかった。息子のイム・ギョンビン(当時18歳)がこの世を去ってから、5年以上の月日が流れたが、“真実”は何一つはっきりしていない。二枚の遺体検案書、食い違う死亡時刻、最後に確認した瞬間の息子の状態。2014年4月16日のセウォル号惨事で亡くなったイム・ギョンビン君の母親、チョン・インスクさん(47)の頭からずっと離れなかった疑問だ。
誰も代わることができなかった母親の問いがきっかけとなり、沈みかかったセウォル号の真実の一部が先月31日、再び水面上に引き揚げられた。「加湿殺菌剤事件および4・16セウォル号事件特別調査委員会」(社会的惨事特別調査委員会=社惨委)が惨事当日、脈拍が戻ったイム・キョンビン君を、海洋警察がヘリコプターではなく船で、事故から4時間41分後にようやく病院まで移送したという調査結果を発表したのだ。
「吐き気がして息が出ませんでした。二日前、映像を見たにもかかわらず、見ていられませんでした。そのまま(会見場に)座っていたら倒れそうで、外に出ました」。12日、京畿道安山市檀園区(タンウォング)の「檀園高校4・16記憶教室」の2年生4組の教室で、ハンギョレのインタビューに応じたチョンさんは、まだ胸が苦しいようで、大きく息をついた。第一分団の2列目の息子の席をゆっくりと見回っていたチョンさんの目が潤んだ。椅子に掛けてあるかばんが、まだ持ち主を待っているかのようだった。
当日、病院で息子の姿を確認した時から、チョンさんの心の中には多くの疑問が浮かんだ。「どうか心肺蘇生術を施してください!」。気が狂った人のように医療陣に訴えていたときも、何か変だと思った。「触らないで、入らないで」という医師たちの制止を振り切って、亡くなった子供を抱きしめ、口づけをした時、息子の唇は冷たく、乾いていた。「惨事当日の現場で、『口に水がなければ人工呼吸をした後であり、唇が黒くなっていれば低体温症』だと聞きました。息子は溺死したのではなく、(亡くなる前に)応急手当を受けたと思いました」
疑惑がさらに濃くなったのは十日後だった。2014年4月26日、出棺のために木浦(モッポ)韓国病院で受けた死体検案書を病院側に提出したが、「このままではだめだ」と言われた。「死亡時刻を一つに統合してほしい」ということだった。ようやく検案書をまともに見るようになったチョンさんは、二枚の検案書に書かれた息子の死亡時刻が食い違っていることを知った。「午後6時36分と午後10時10分」。同年5月、チョンさん夫妻が直接木浦韓国病院を訪ねて、息子の最終検案書の死亡時刻が「午後10時10分」であることを確認した。「依然としてはっきりしませんでした。午後6時36分が子供を初めて海の上から引き上げられた時間なのか、船の上で救急隊員たちが決めた死亡時間なのか…」
それから、チョンさんは検察とセウォル号の特別調査委員会(1期特調委)に何度も疑問を提起した。しかし、疑惑は晴れなかった。検察に証拠保存申請をし、惨事当日3009艦の証拠映像と海洋警察の状況日誌、息子の写真などを手にしたが、資料の中の時間と位置がそれぞれ違っていた。特調委が政治的な妨害の中で解体されるのも見守るしかなかった。それから5年以上が過ぎた今年10月29日になってようやくイム・ギョンビン君の両親は息子の救助・捜索過程が映った映像を目にすることができた。
「本当に息が詰まりました。夫と二人で何も言えませんでした。息子に本当に申し訳なかったです。一体、あんな状況まで作って、何を隠そうとしたのでしょうか。人の命をあんなふうに扱うなんて…」。チョンさんは「映像が明らかになったのは、子供たちが私たちに送るシグナルだと思った」と涙声で話した。「子供たちも悔しかったでしょう。真相を解明してほしいと、自分たちの無念を晴らしてほしいと、訴えたかったと思います」。
今月6日、検察がセウォル号の特別捜査団(特捜団)を立ち上げたというニュースを聞いて、チョンさんは「嬉しい気持ちより戸惑いが大きかった」と話した。彼女はマスコミの速報で特捜団が構成された事実を知った。「セウォル号の遺族たちに一言も言わず、特捜団を設置するなんて、呆れてしまいました。海洋警察の証拠映像が公開されなければ、最後まで(捜査を)行わなかったかもしれないと思いました」。チョンさんは「検察と機務司令部、国家情報院が関与した事件を検察がまともに捜査できるか心配だ」としながらも、検察に訴えた。「惨事当日、なぜ救助をしなかったのか、なぜ船が沈没したのか、最初から最後まで真相を解明しなければなりません」