私が勤務先の大学図書館長に就任して1年が経った。就任時、学長(韓国でいう総長)からはごく簡単な指示があった。「学生たちがもっと本を読むようにして下さい。」
私はそれを「図書館的時間を取り戻す」という課題と理解した。「図書館的時間」というのは私の造語で、いわば「新自由主義的時間」の反対語である。図書館はいま危機に瀕している。「図書館的時間」を「新自由主義的時間」が浸食している。今回はその話を書くつもりだが、その前に書いておかなければならないことがある。
あと数日すると、日本では現天皇の退位、新天皇の即位という行事が行われ、それにともなって「元号」も「平成」から「令和」へと改められる。いまマスコミ等の報道を見る限り、日本社会の多数の人々はこぞってこの事態を歓迎し、浮ついたムードに覆われている。強制されてではなく、みずからすすんで「臣民」となることを喜んでいるかに見える。
元号法が定められたのは1979年のことである。日本敗戦からその時までは元号には法的根拠がなかった。日本国民のなかにも元号(ひいては天皇制)に疑問や批判を抱く者は少なくなかった。40年後の現在、日本社会は敗戦による莫大な犠牲と引き換えに与えられた「民主化」のチャンスを、ついに、みずから放棄したのである。
私はかつて戦後天皇制を指して、「前近代(プレモダン)と近代以降(ポストモダン)との共犯関係」と比喩したことがある。そのわかりやすい一例として、たとえば公的文書や銀行取引書類などをパソコン入力する際、西暦と元号が併存・混在しているため、きわめて煩瑣である点を挙げた。この煩雑さにぶつかるたびに天皇制の存在を思い知らされ、知らず知らずこの煩雑さに慣れてしまったとき、天皇制そのものをまるで自然現象であるかのように内面化しているのだ。そのような効果が意図されているのである。
天皇制という前近代的な制度と、コンピューターに代表されるポストモダン的な先進技術が、相互補完的に癒着している。そこに欠落しているのは「近代」である。ここでいう「近代」とは、個人の独立と尊厳、法の下の平等、基本的人権、思想表現の自由など、フランス革命を経て人類史が少しずつ具現化してきた普遍的な諸価値のことである。天皇制がその植民地支配責任や戦争責任について問われなければならないことは当然としても、それが封建的身分制の思想であるという一事のみをもっても、歴史的に終焉を宣告されるべきものであることは明らかである。それなのに、21世紀の世界で、それも「先進国」を自任する国で、国民たちの多数がみずから市民としての尊厳を放棄し前近代的制度の存続を祝っているのだ。
幾人かの識者が指摘していることだが、元号とは人民の時間を支配者(君主)の尺度で切り取ることを意味する。つまり、人民の時間感覚に対する支配である。権力層にとって不都合な出来事は、カレンダーをめくるように「過去のもの」とされる。それでも過去の隠蔽や忘却に抵抗する人々は「時代錯誤的」とされ、排除されていく。一例をあげてみよう。「慰安婦問題」や「徴用工問題」をはじめとする植民地支配責任問題は未解決であり、少しも過去のものとなっていない。しかし、それらのことはすでに日本では「平成」以前の、「昭和」の出来事として人々の意識の中で「過去化」されている。それがこれからは、さらにひと時代前の出来事として「過去化」されるのだ。「それはもう昔のことだ、水に流そう」というの、つねに強者、加害者、既得権者が好むセリフである。
私は一昨年、自著に次のように書いた。「今後数年、日本の政治は『北朝鮮の脅威』『東京オリンピック』『天皇の譲位』というトピックを中心に動いていくだろう。これらの『政治的資源』を与党や支配層が自己の権益拡張のため徹底的に利用し尽くすだろう。(中略)国民多数は(リベラル派を含めて)『自粛』し、『忖度』し、自発的隷属の度をますます深めていくだろう。全体主義の完成形態である。」(『日本リベラル派の頽落』後記)
その後、私の予見したとおりに事態は進行し、かつてなら内閣総辞職に値したような数々の不祥事にもかかわらず、安倍内閣は揺るぎもせずに存続している。安倍首相の信頼厚い右腕として、この間の強権的政策を推進してきた菅官房長官は、新元号の発表役を務めただけで人気が急上昇し、ポスト安倍の有力候補に浮上したそうだ。信じがたいまでの軽薄さである。日本国民たちの時間は今後も「天皇制的時間」感覚に塗りつぶされるのである。
さて、図書館の危機について述べよう。危機は主として二つの方向から迫っている。一つは社会全体に及ぶ読書文化の衰退である。一昨年の文科省の調査では、(雑誌を別として)1年間にまったく本を読まない人の比率が5割に達したそうだ。もう一つは、「費用対効果」「成果主義」という新自由主義的発想が文化や教育の領域まで浸食していることである。
韓国のことはよく知らないが、日本では大学図書館の予算は常に縮減の対象であり、図書館の多くはこのところ長く「構造調整」という名の圧力にさらされている。専任司書職員の数は減り、外部委託の比率が年々増加している。こうした傾向の背景に、図書館の存在価値を短期的な「費用対効果」で計ろうという「新自由主義的」発想がある。この発想に立つと、図書館の価値は学生の就職率や資格取得率といったわかりやすい数値でしか計ることができない。
図書館の使命は普遍的な視野を堅持して人類の知性に奉仕することである。その価値は一個人や一企業、一政権の寿命などをはるかに超える尺度でしか測れない。一例を挙げれば、カール・マルクスは英国亡命中、およそ30年間大英図書館に通って「資本論」を書き上げた。これはマルクス個人の業績であると同時に、図書館なしにはあり得なかったという意味で、大英図書館の業績でもある。このような知的営みの価値を短期的な尺度で計ることはできないのである。
一昨年、日本のある地方大学図書館で、約3万8千冊の蔵書が廃棄され焼却されるという事件があった。それが報じられると、現代の「焚書」か、と批判の声が高まり、大学の責任者が釈明と謝罪をするという事態になった。大学側としては蔵書スペースの制約から、慎重に選んだ蔵書を処分したものだ、という。現在の時点で考えると、これを直ちにナチスなど政治権力による「焚書」に結び付けて非難することはやや早計ともいえよう。しかし、そう片付けてしまってよいものか、という思いも一方にはある。政治権力が棍棒をふるって威圧しなくとも、じわじわと予算を圧縮し、同時に「費用対効果」を執拗に要求すると、「役に立つ」書物のみを所蔵するとか、蔵書を焼却するというような反応も容易に起こりうるだろうと想像できるからである。現代の「焚書」は、暴力に訴えるまでもなく、「新自由主義的」な手法によって同様の結果を得ることが可能なのである。「図書館的時間」を侵食するという手法によって。
そもそも本を読むとは、どういう行為なのか。若い頃、図書館にとくにこれといった目的もなく足を踏み入れた時の厳粛な思いをいまも時々思い出す。床から天井までぎっしりと埋まった書籍の背表紙、手に取った書物のずっしりとした重み、紙やインクの匂い、昔の人や外国人など見知らぬ著者の名前や経歴に覚える畏敬の念。どれほどの知的研鑽がそこに注ぎ込まれたのか、自分などの知らない世界がどれほど奥深く広がっているのか、せめてその一端になりとも触れてみたいと望んだ謙虚な憧れの気持ち。あの畏敬と憧れの思いが、私という人間の骨格をつくったという気持ちは変わらない。
簡単には答えの得られないような深い問い(およそ人間に関する問いはすべてそうである)に身を沈め、終わりのない問答に没頭する、その思考の過程そのものが豊饒であり喜びに満ちているのである。それがつまり「図書館的時間」である。スマホの検索機能に依存し、上記のような思考過程を経ないまま与えられた「解答」に跳びつく態度は、その学生にとっての不幸であるだけでなく、社会全体の平和にとっての脅威である。それは事物を単純に類型化してとらえ他者を一括して差別し敵視する姿勢につながる。ヘイトクライムの温床であり、戦争の培養器である。支配者が望んでいるのはそのような「臣民」である。
人間以外の存在が本を書くだろうか、本を読むだろうか。それは人間を人間たらしめる喜び、自由な人格として自己を形成する喜びなのである。このような喜びを学生にも提供しようとする場が、図書館である。そのためには、自由で寛容な「図書館的時間」を取り戻さなければならない。「新自由主義的時間」と「天皇制的時間」に抵抗して、人間の時間を取り戻すために。
韓国語原文入力:2019-05-02 17:24